鹽原日記
岩野泡鳴

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)福渡《ふくわた》り

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一名所|神居古潭《かもゐこたん》の

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ごた/\して
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 十月廿七日、晴。急行で午後四時三十分頃に西那須驛に着した。實は、初めてのことで、而も急行は宇都宮《うつのみや》より先きは黒磯でなければとまらぬやうに旅行案内には出てゐたので、正直に黒磯までの切符を買つたのだが、車上で人に教へられて西那須へ下りたのだ。
 そこから自動車(乘り合ひ、一人前四圓)で五里半の道を四十五六分で鹽原の福渡《ふくわた》りと云ふ温泉場へ來た。その途々のいい風景は、日が暮れてゐたので、見られなかつた。どこへとまると云ふ當てもなかつたのだが、乘り合はせた老人夫婦も當てて行くと云ふので、一緒にいづみ屋別館へとまることにして、そこで自動車を下りた。團體が來てゐてやかましいが、あすは歸るからと云はれて、僕は老人夫婦のと前以つてきまつてたおもて向き坐敷の隣室へ這入つた。宿帳へは、どこへ行つても、僕は職業を著述家と書くのだが、どう云ふことをするのかと問ひ返されることがあるので、今囘はそのうるささの豫想を避けるため、職業の一部分なる小説家を以てしたところ、それを一と目見てから番頭は俄かにほほゑんでじろりと僕の方を見返した。名を知つてたのか、それとも小説家と云ふのが珍らしかつたのか、そこはちよッと分らなかつた。やがて再び番頭がやつて來て、
「書き物をなさるなら、ここはごた/\してゐまして、お困りでしようから、あすから本館の離れの二階へ御案内致しましようか」と云つた。その代り、寂しくて不便だがとのことであつたが、それはかまはないから、その方が結構だと僕は頼んだ。
 湯はすみとほつて修善寺温泉のそれのやうに綺麗だ。手ぬぐひも染まらないで、ます/\白くなると云ふ。僕が修善寺を好きなのもその爲めである。その夜は一杯飮んで直ぐ休むつもりであつたが、食後、隣室の老人に呼ばれて暫らく話をしに行つた。日本橋の藥り問屋の隱居であつた。孫だと云ふ五歳の女の子をもつれてた。
「あなたなどはまだお若くて結構です、わたしなどは、もう、この通り、あたまも」などと云つたが藥り屋のせいか、なかなか達者さうなおぢいさん、おばアさんであつた。二十年來、いづみ屋のお客ださうだ。向ふとこちらと同じやうに酒は一本と飮めないのであつた。達者なのは、一つには、さう飮まないせいだとおぢいさんは云つてた。西那須驛の自動車立て場の人があまり横暴で面白くなかつた話も繰り返された。それは僕も不愉快には思つたが、ただ仕かたがなかつたこととして來たのであつたから、今、同感しないではゐられなかつた。貸し切りで十二圓だから、三人が四圓づつはいいとしても、いよ/\出發の時に一人ふえたにも拘らず、矢張り、その人からも四圓取つたのだ。そして「それが當り前です」と、立て場のものらは僕らを乘せてからも怒鳴つてゐた。
 十月廿八日、曇。別館は、そのうら廊下から川向ふを見ると前山《まへやま》並びにその左右の青い樹木やこうえふが見える代りに、ごた/\と人の往き來がやかましい。で、朝めしをすませると直ぐ、道の向ふがはなる本館の離れへ移つた。そして本館としても、段々高くなつてるその一番奧の建て物の二階を僕が占領することになつた。そこへ行くには長い内廊下や、いくつもの階段や、大きな部屋々々があるけれども、大抵は別館の方で客を受けてしまうかして、殆どがらんどうのやうだ。そのがらんどうの一番奧二階だが、この夏は皇太子殿下附き侍從や武官がゐたさうで、ずッと前にはまた閑院の宮樣もゐられた。また、三島彌吉さんが新婚の宴をひらいた時の室もここであつたとのこと。
 あたりの家々の家根をよそに見おろして、青い山や赤い山に向つてゐる。青いのは前山で、澤山の杉がお槍のやうに並んでその絶頂までのしあがつてる。これにはこうえふが比較的に少い。が、それと一つ淺い谷をへだてた山には、その代り、赤や黄や青みがかかつた黄やの色で以つて一面の錦が織り出されてゐる。そのうちで、赤いのはもみぢやつつじ、櫻の葉の色で、黄いろいのはカツラ、ナラ、栗などの葉だ。それらを押しなべてこうえふと云つてるのだが、その光りあるけしきは、本年はまだ霜や風がひどくないので、これからまだ暫らく盛りだと云ふ。
 ここに三島子爵の別莊があると云へば、妻よ、お前も十日會の會員だから、來月の幹事に當つてる同氏を思ひ出して親しみを持つだらうが、それは赤い山の方のはづれ(無論、川のこなたであるが、川は音ばかりでこの室からは見えない)に在る。こちらへかぎの手に反つて向ふへひらいてるその方に、そこの庭
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