者には殊に多いのに、この人を知り、その夫人を知って、教授の心の領域が聖者にも近いものがあると私は感じたのであった。教授の宇宙を越え得べき精神思索、理想探求の奥は窺うこともできない私ではあるが、そのポツリ、ポツリ話し出す言葉を、私は、あたかもロダンの芸術にでも接するように、むさぼり味わったのであった。
私は、この人は東洋のさびもわかる人である、とも思った。お能を見たとき、伶人の古楽をたのしみきいたとき、その批評がなかなか堂に入ったものであった。『改造』の十五年を叙して、思わぬ横町の風景にまではいってしまったが、私は教授の如く、文明、文化、百年、千年のため、常に第一義的聖線に立ち得る資格について、深刻な瞑想にさそわるることもたびたびあった。自分たちは今、いかなる人間としての役割についているのか。発売禁止とか、切取りとかの険を冒して、何のために営々努力しているのか。われわれの最後の一線は、どこにあるのか。文化のためとか、文明のためとか、国家や、民族のためと、漠然とは言い得るにしても、さて、具体的にわれわれの方途を解剖し、理論づけることのできないプアな状態にあったその当時の私であった。
だが、その当時からすれば我が日本もいちじるしく大人になった。そして万事が大国的に、外の大民族と対等の文化的姿勢を取れるようになった。我が民族は伸び行く地力と、咀嚼とがあった。さりながら、私はそのときから十四年も経過して、依然呉下の阿蒙たる地位を脱することの出来ない身である。天才の恵まれているもののない私である。どうも同じ人間であっても、何だか、そこに非常な段階のあるような気がしてならぬ。少くとも、私の頭というものが、テンポの速い我が日本の現勢にたいし、どれだけ今後、役立ち得るかということを考えて、私は自信がつきかねた。と同時に、すべての日本の思想的呑みこみの早さと、荒ッポさと、飽きッぽさにも合点のゆかぬふしだらけだ。
アインシュタイン教授を迎える前に、米の哲学者デュウイ教授や、産児制限のサンガー女史をも迎えた。ところが女史は横浜まで来て上陸が出来ぬ始末で、何とも気の毒の至りにたえなかった。しかし、神田青年会館で一回の演説を限ってやることを私から内務省に誓約して、やっとのことで上陸ができたのであった。
『改造』に外国のそれぞれの権威から寄稿したものは前記のほか、フッサール、リッケ
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