ルニクスや、ガリレオよりも偉大であったであろう。
私は全世界の思潮を風靡したるこの大偉人と、四十日間に亙りて起居を同じくし、芸術の話や、音楽の話、さては社会、経済の諸機構の話に至るまで何かといい指示を受けた。ただ、いつか私に対して「自分は数学が得意でないから」と洩らしたことがある。私は理論物理の不世出の偉人にしては、ずいぶんおかしいことと思って、さらにきき直してみたことがあったが、やはり、それは私の誤りではなかった。教授はまた数学では有名な京大の園正造教授にただし、もしくは石原純氏にたいして、いろいろ相談的の会話があるのを聞いたことがあった。そして東北大学金属科の本多光太郎さんにたいしても、ある質問をするのを見受けたことがある。
私は思った。もうこれほどの人物になれば、自分の地位とか身分とかいうものを超越する。国家をも、国際をも超越する。一つの長所を尊敬し、そして自分の不足をいつまでも補って行こうとする真理探究者のあの謙虚な態度に頭が下がったのであった。これだけの態度を見せさせられただけでも、私は今回教授を招いた価値のとても高貴であったことを感ぜずにはいられなかった。私は、この方の学問には聾唖で、こんな深奥な理論などは皆目わかるはずがない。しかし、その人格的に感じたことから推しても、市井で眺めたり、つき合ったりする人びとより、一まわり、二まわりの大きさを感ぜずにはいられなかった。
教授は音楽が好きであった。ベルリンからヴァイオリンを携えて日本に来朝したのであったが、日本内地を旅行中も、夕食後の気もちのいい時などには私などを慰める意味もこもっていたであろうが、ときどき提琴をきかさるるときがあった。私はそのとき、あの大きな頭や、あのふくよかな顔をつくづく見入るのであったが、その瞬間ほど教授にとりて幸福な時間はないようであった。すべてを打ち忘れ、あらゆるものを超越し、身の苦悩も、身の海外万里の地にあるのも打ち忘れて満身法悦にひたっているように見られたのであった。
私は、教授の思想と、夫人との思想的立場が、どうであろうかはもちろん知るによしなきことではあるが、しかし、夫人を愛するというよりは、いたわりつつむ至人的の態度にも打たれたのであった。
夫婦の地位、教養の距たりは、ともすれば一方を侮蔑するがような、もしくは、心の窓を三分の一も展かないようなものが有識
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