ルト、ゴンパース、シドニー・ウェッブ、カウツキー、コール、パンクハースト、ヘイウッド、バルビュッス、ハヴェロック・エリス、ベルンシュタイン、ゴールキー、胡適、クローデル、トロツキー、タゴール、ヨッフェ、ロマン・ローラン、ウェルズ、レーデラー、ピリニャーク、チャプリン、ムッソリニ、チャーチル、パンルヴェー、バーナード・ショウ、魯迅、プリボイ、等々燎爛をきわめている。その多角・多彩的な顔ぶれを回想すれば、我が国が思想的に幾変遷したことが、ほぼ推知されるのである。
 このうちヨッフェの寄稿は、大正十二年初頭はじめて日ソ通商復活のため彼が労農特派使節として来朝し、囂々たる我が国排ソの重囲にありて、それも三十九度、四十度を越す重態の床上にありて執筆した労農政府を代表する重要な論文であった。「労農新旧経済政策」と題する熱烈、堂々たる構策で、これにたいし我が私設代表たる後藤新平氏も「対露意見」を翌月我が誌に発表して一世の注目を惹いた。

 それから我が誌の創作欄は創刊号において幸田露伴氏の「運命」がかなり問題となったが、大正十年新年号に志賀直哉氏の一大長篇「暗夜行路」出ずるに及んで異常の衝撃を与えた。芥川龍之介の如きは、明治以来の何人も企及することのできぬ出来栄えの確かな傑作であると賞揚した。それまで志賀氏は短篇作家として十枚、二十枚のものを発表していたが、本篇は数年に亙って『改造』に連載された。また、谷崎潤一郎氏の中篇小説「愛すればこそ」「卍(まんじ)」も非常の歓迎を受けた。その他、評判の高かったものも多いのであるが、これらについては『改造』十周年号に千葉亀雄氏が批評したものと重複するからここに省くこととする。

 私は、五、六年前までは、たいていの小説や戯曲は一読しておったが、自分の仕事のひろがるとともに、それもできなくなった。ところが、昨年十一月から雑誌『文芸』を刊行するようになって、また以前のように月に幾つかは目にふれるようになった。そして『改造』の懸賞創作の当選者たちとも、ときどき逢ってみる。私はこららの人びとから他日、立派なものをかいてくれる人が出ることを念ずる。
 また私が、雑誌に関係するようになってから、ずいぶん、多くの文壇人が死んだ。鴎外氏の晩年ごろは、私はときどき上野に訪問した。そしていろいろの人に紹介してももらった。ブッキラボウのようで深切味のある人であった
前へ 次へ
全9ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
山本 実彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング