□本居士
本田親二

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)祖父《じい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四十九日|経《た》って
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 時代はよく解りませんが、僕の祖父《じい》の若い時ですから、七十年ばかり前でしょう。
 大隅国加治木《おおすみのくにかじき》に長念寺《ちょうねんじ》という寺がある。其寺《そこ》に、或《ある》人が死んで葬《ほうむ》られた。生前の名は忘れました。四十九日|経《た》ってから家族が墓石を建てたんです。その墓石――高サ約二尺くらいの小さな墓――に、仏名《ぶつみょう》が彫ってある、慥《たし》か四字でした。上の字は忘れましたが、「□本居士《ほんこじ》」と彫ってあります。
 その「本」とい字の下の十の横の一《ぼう》に朱《しゅ》が入れてあるのです。今|現《げん》にその朱が入っています。
 その十の字の一画の、由来因縁になるお話ですが、始め、墓石を建てた時、その「本」と云う字が、石工の誤りで、「木」と云う字になっていたのです。
 それを誰《たれ》も気が着《つ》かないで、そのまま建ててしまったのですね。
 ところが、その墓石を建てた晩に――死んだ人の親友に、妙善《みょうぜん》と云う僧侶《ぼうず》がある、これは別の天総寺《てんそうじ》という寺に、住職をしていました――その天総寺の門前へ来て、「妙善妙善。」と呼ぶ声がする。
 その声が如何《いか》にも死んだ人の声に似ている。いつもその天総寺へ遊びに来る度《たんび》に、そう云う風にその人は呼んでいたそうです。
 で、如何《いか》にもその声が似ているから、妙善は「まあお入《はい》んなさい。」と言ったんですね。そうすると、その人は入って来たんです。白装束のまんま、死んだ時の姿で、そうして庫裡《くり》へ上《あが》って来た。
 ちゃんと座敷へ入って、坐蒲団の上へ坐ったそうです。
 で、普通の挨拶をしたんですね、何と挨拶をしたか、それは知らないが。
 その時、その妙善の梵妻《だいこく》が、お茶を持って入って来たんです。で、左《と》に右《かく》夫妻《ふたり》とも判然《はっきり》見た。
 それから、その、梵妻《だいこと》の持って来たお茶を、その死人が飲み乾《ほ》したんです。そして、
「今夜少しお願いがあって来た。」と言ったんです。
「甚麼《どんな》事ですか、出来る事なら、何でもやりましょう。」と言うと、「実はその、今日墓石を建てて貰った。ところがその戒名《かいみょう》の字が一字違っている。『本』という字が『木』になっている。しかし家《うち》の連中《やつら》は女子供ばかりだから屹度《きっと》気が着《つ》かぬに相違ない。お前に頼むから『木』の字を『本』に直してくれ」と云った。
 それから、妙善は、
「ええ那様《そんな》事なら訳はないです。それじゃ明朝《あした》、左《と》に右《かく》行って、検《しら》べてみて直しますが、そう云う事は長念寺の和尚《おしょう》の処《ところ》へも行って、次手《ついで》にお談《はなし》なすったら可《い》いでしよう。」と言うと、「そうか、それじゃ帰りに一寸《ちょっと》寄って、話して行こう。」と言ったそうです。
 その時お寺で素麪《そうめん》が煮てあったんです。それから、「これは不味《まず》い物ですけれど」ってその梵妻《だいこく》が持って来たんです。そうしてそれをその死人《しにん》の前へ出した。
 すると、「これは非常に旨《うま》い。」と言ってその素麪《そうめん》を食べてしまった。そうして、「宜《よろ》しく頼む。」と言って、幽霊は帰って行ってしまった。
 後で妙善は、もし幽霊ならば本当に食える筈はない。お茶を飲んで、素麪《そうめん》を食ったのは些《ち》と怪しい――と考えた。
 で、よくよく座敷の中を検《しら》べてみると、その座敷の隅々《すみずみ》、四隅《よすみ》の処《ところ》に、素麪《そうめん》とお茶が少しずつ、雫《こぼ》したように置いてあった。
 それで、どうしてもこれは狐や狸の業《わざ》ではない。確かに幽霊だろうとその妙善は思ったんです。
 それから翌日になりまして、長念寺の和尚《おしょう》の処《ところ》へ、妙善が出掛けて行った。そして、昨夜《ゆうべ》その何某《なにがし》がやって来て、実は是々《これこれ》こう云う事があったが、お前の方へも来たかと聞いてみたんです。
 やっぱり此方《こっち》にもちゃんと来ておる。そして、その時刻が、丁度《ちょうど》天総寺の方からこの長念寺に歩いて来るだけの時刻を隔ててやって来ている。そうして、その和尚《おしょう》にもちゃんと頼んだんだそうです。
 それから二人は、「まあ左《と》に右《かく》行ってみよう」と云って、一緒に墓所へ出掛けて行った。見ると、果《はた》して、墓石の字の、「本」が「木」
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