風は草木にささやいた
風は草木にささやいた
山村暮鳥
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)古木《こぼく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)無論|他人《ひと》の
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#ローマ数字1、1−13−21]
〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔TO K.TO^YAMA.〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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此の書を祖國のひとびとにおくる
なんぢはなんぢの面に汗して生くべし
人間の勝利
人間はみな苦んでゐる
何がそんなに君達をくるしめるのか
しつかりしろ
人間の強さにあれ
人間の強さに生きろ
くるしいか
くるしめ
それがわれわれを立派にする
みろ山頂の松の古木《こぼく》を
その梢が烈風を切つてゐるところを
その音の痛痛しさ
その音が人間を力づける
人間の肉に喰ひいるその音《ね》のいみじさ
何が君達をくるしめるのか
自分も斯うしてくるしんでゐるのだ
くるしみを喜べ
人間の強さに立て
耻辱《はぢ》を知れ
そして倒れる時がきたらば
ほほゑんでたふれろ
人間の強さをみせて倒れろ
一切をありのままにじつと凝視《みつ》めて
大木《たいぼく》のやうに倒れろ
これでもか
これでもかと
重いくるしみ
重いのが何であるか
息絶えるとも否と言へ
頑固であれ
それでこそ人間だ
自序
自分は人間である。故に此等の詩はいふまでもなく人間の詩である。
自分は人間の力を信ずる。力! 此の信念の表現されたものが此等の詩である。
自分は此等の詩の作者である。作者として此等の詩のことをおもへば其處には憂鬱にして意地惡き暴風雨ののちに起るあの高いさつぱりした黎明の蒼天をあふぐにひとしい感覺が烈しくも鋭く研がれる。實《まこと》にそれこそ生みのくるしみ[#「生みのくるしみ」に傍点]であつた。
生みのくるしみ! 此のくるしみから自分は新たに日に日にうまれる。伸び出る。此のくるしみは其上、強い大膽なプロメトイスの力を自分に指ざした。遠い世界のはてまで手をさしのべて創世以來、人間といふ人間の辛棒づよくも探し求めてゐたものは何であつたか。自分はそれを知つた。おお此のよろこび! 自分はそれをひつ掴んだ。どんなことがあつても、もうはなしてやるものか。
苦痛は美である! そして力は! 力の子どもばかりが藝術で、詩である。
或る日、自分は癲癇的發作のために打倒された。それは一昨々年の初冬落葉の頃であつた。而もその翌朝の自分はおそろしい一種の靜穩を肉心にみながら既に、はや以前の自分ではなかつた。
それほど自分の苦悶は精神上の殘酷な事件であつた。
此等の詩は爾後つい最近、突然咯血して病床に横はつたまでの足掛け三ヶ年間に渉る自分のまづしい收穫で且つ蘇生した人間の靈魂のさけび[#「さけび」に傍点]である。
一莖の草といへども大地に根ざしてゐる。そしてものの凡ゆる愛と匂とに眞實をこめた自分の詩は汎く豐富にしてかぎりなき深さにある自然をその背景乃至内容とする。そこからでてきたのだ、譬へばおやへび[#「おやへび」に傍点]の臍を噛みやぶつて自《みづか》ら生れてきたのだと自分の友のいふその蝮の子のやうに。
自分は言明しておく。信仰の上よりいへば自分は一個の基督者《キリステアン》である。而も世の所謂それらの人人はそれが佛陀の歸依者に對してよりどんなに異つてゐるか。それはそれとして此等の詩の中には神神[#「神神」に傍点]とか人間の神[#「人間の神」に傍点]とかいふ字句がある。神神[#「神神」に傍点]と言ふ場合にはそれは神學上の神神ではなく、單に古代ギリシヤあたりの神話を漠然とおもつて貰はう。また人間の神[#「人間の神」に傍点]とあればそれは無形の神が禮拜の對象として人格化《パアソニフワイ》されるやうに、これは正にその反對である。其他これに準ず。
最後に詩論家及び讀者よ。
此の人間はねらつてゐる。光明思慕の一念がねらつてゐるのだ。ひつつかんだとおもつたときは概念を手にする。これからだ。これからだ。何時もこれからだとは言へ、理智のつぎはぎ、感情のこねくり、そんなものには目もくれないのだ。捕鯨者は鰯やひらめ[#「ひらめ」に傍点]にどう値するか。
……何といふ「生」の嚴肅な發生であらう。此の發生に赫耀《かがやき》あれ!
※[#ローマ数字1、1−13−21]
穀物の種子
と或る町の
街角で
戸板の上に穀物の種子《たね》をならべて賣つてゐる老嫗《ばあ》さんをみてきた
その晩、自分はゆめをみた
細い雨がしつとりふりだし
種子は一齊に青青と
芽をふき
ばあさんは蹙め面《づら》をして
その路端に死んでゐた
彼等は善い友達である
結氷したやうな冬の空
その下で渦捲く烈風
山山は雪でまつ白である
晝でもほの暗い
ひろびろとした北國の寒田に
馬と人と小さく動いてゐる
はるかに遠く此處では
馬と人と
なんといふ睦じさだ
そして相互《たがひ》に助けあつて生きてゐる
寒田は犂きかへされる
犂きかへされた刈株の田の面はあたらしく黒黒と
その上に鴉が四羽五羽
どこからきたのか
此のむごたらしい景色の中にまひおりて
鴉等は鳴きもせず
けふばかりは善い友達となつて働いてゐる
なにを求めて馬や人といつしよになつてゐるのか
それが此處からはつきり見える
田の畦の枯れたやうな木木までが苦痛を共にしてゐるやうだ
父上のおん手の詩
そうだ
父の手は手といふよりも寧ろ大きな馬鋤《からすき》だ
合掌することもなければ
無論|他人《ひと》のものを盜掠《かす》めることも知らない手
生れたままの百姓の手
まるで地べたの中からでも掘りだした木の根つこのやうな手だ
人間のこれがまことの手であるか
ひとは自分の父を馬鹿だといふ
ひとは自分の父を聖人だといふ
なんでもいい
唯その父の手をおもふと自分の胸は一ぱいになる
その手をみると自分はなみだで洗ひたくなる
然しその手は自分を力強くする
この手が母を抱擁《だきし》めたのだ
そこから自分はでてきたのだ
此處からは遠い遠い山の麓のふるさとに
いまもその手は骨と皮ばかりになつて
猶もこの寒天の痩せた畑地を耕作《たがや》してゐる
ああ自分は何にも言はない
自分はその土だらけの手をとつて押し戴き
此處ではるかにその手に熱い接吻《くちつけ》をしてゐる
或る朝の詩
冬も十二月となれば
都會の街角は鋭くなる……
曲つた木
うすぐらい險惡な雲がみえると
すぐ野の木木はみがまへする
曲りくねつた此の木木
ねぢれくるはせたのは風のしわざだ
そしてふたたびすんなりとは
どうしてもなれない
そのかなしさが
いまはこの木の性となつたのか
風のはげしい此處の曲りくねつた頑固な木木
骨のやうにつつぱつた梢にも雨が降り
それでも芽をつけ
小鳥をさへづらせる
まがりなりにも立派であれ
ああ野にあつて裸の立木
ああ而もなほ天《そら》をさす木木
ランプ
野中にさみしい一けん家
あたりはもう薄暗く
つめたく
はるかに遠く
ぽつちりとランプをつけた
ぽつちりと點じたランプ
ああ
何といふ眞實なことだ
これだ
これだ
これは人間をまじめにする
わたしは一本の枯木のやうだ
一本の枯木のやうにこの烈風の中につつ立つて
ランプにむかへば自《おのづか》ら合さる手と手
其處にも人間がすんでゐるのだ
ああ何もかもくるしみからくる
ともすれば此の風で
ランプはきえさうになる
そうすると
私もランプと消えさうになる
かうして力を一つにしながら
ランプも私もおたがひに獨りぼつちだ
夜の詩
あかんぼを寢かしつける
子守唄
やはらかく細くかなしく
それを歌つてゐる自分も
ほんとに何時《いつ》かあかんぼとなり
ランプも火鉢も
急須も茶碗も
ぼんぼん時計も睡くなる
遙にこの大都會を感ずる
この麥畑の畦のほそみち
この細道に立つ自分をはるかに大都會も感ずるか
けふもけふとて
砂つぽこりの中で搖れてゐる草の葉つぱ
ああ大旋風も斯る草の葉つぱからはじまつてやつぱり此の道をはしるのだ
ああ此の道
道はすべて大都會に通ずる
道は蔓のやうなものでそして脈搏つてゐる
まつぴるまの太陽も暗く
あたまから朦朦と塵埃をあびせかけられてゐる幻想
その塵埃の底にあつて呼吸《いき》づく世界きつての大都會よ
ああ大沙漠の壯麗にあれ
ああ壯麗な大旋風
その街街の大建築の屋根から屋根をわたつて行く
大群集の吠えるやうな聲聲
此の大都會をしみじみと
此の大沙漠中につつ立つ林のやうな大煙筒を
此のしづけさにあつて感ずる
何處へ行くのか
またしても
ごうと鳴る風
窓の障子にふきつけるは雪か
さらさらとそれがこぼれる
まつくらな夜である
ひとしきりひつそりと
風ではない
風ではない
それは餓ゑた人間の聲聲だ
どこから來て何處へ行く群集の聲であらう
誰もしるまい
わたしもしらない
わたしはそれをしらないけれど
わたしもそれに交つてゐた
梢には小鳥の巣がある
なにを言ふのだ
どんな風にも落ちないで
梢には小鳥の巣がある
それでいい
いいではないか
春
どこかで紙鳶《たこ》のうなりがする
子どもらの耳は敏く
青空はひさしぶりでおもひだされた
いままで凍《い》てついてゐたやうな頑固な手もほんのりと赤味をさし
どことなく何とはなしににぎやかだ
どこかで紙鳶のうなりがする
それときいてひとびとは
ああ春がきたなと思ふ
そして何か見つけるやうな目付で
水水しい青空をみあげる
てんでに紙鳶を田圃にもちだす子ども等
やがてあちらでもこちらでもあがるその紙鳶
それと一しよに段段と
子どもらの足も地べたを離れるんだ
※[#ローマ数字2、1−13−22]
萬物節
雨あがり
しつとりしめり
むくむくと肥え太り
もりあがり
百姓の手からこぼれる種子《たね》をまつ大地
十分によく寢てめざめたやうな大地
からりと晴れた蒼空
雲雀でも啼きさうな日だ
いい季節になつた
穀倉のすみつこでは
穀物のふくろの種子もさへづるだらう
とびだせ
とびだせ
蟲けらも人間も
みんな此の光の中へ!
みんな太陽の下にあつまれ
種子はさへづる
種子《たね》はさへづる
穀倉の種子のふくろで
はるがきたとてか
青空の雲雀も
それをききつけた百姓は
あわてて穀倉に驅けこみ
穀物の種子のふくろを抱きだした
或る雨後のあしたの詩
よひとよ細い雨がふり
しののめにからりとはれて
しつとりと
なにもかも重みがついた
ああ此の重み
そのおちつきが世界をうつくしくするのであるか
それだのに人間ばかり
何といふみすぼらしさだ
穀物の種子のふくろをだきだすその腕《うで》につたはる
あの重みだ
あの重みにみちみてよ
ああ人間
大地と太陽とのいとし子
十字街の詩
[#ここから横組み]”[#「”」は下付き]THIS IS THE MANY−TENTACLED TOWN”[#「”」は下付き][#ここで横組み終わり]
――VERHAEREN――
ここは都會の大十字街
すべての道路はここにあつまり
すべての道路はここからはじまる
堂堂とその一角にそびえた
大銀行をみろ
その窓したをぞろぞろと
ひとはゆき
ひとはかへる
なんにもしらないゐなかびとすら
此の大銀行の正面にてはあたまを垂れ
手をうやうやしくあはせる
ああ都會の心臟である十字街
都會はまるで惡食《あくじき》をする大魚の胃ぶくろのやうに
ここはひとびとをひきつけて
そのひとびとを喰ひ殺すところだ
そこから四方へ草の蔓のやうにのびてゆく街街
つらなり列ぶ家家
何といふ立派なものだ
ああ此のけむり吐く大煙筒の林
此のすばらしさ
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