しない
事實は事實だ
けれどもう一切は過去になつた
足もとからするすると
そしてもはや自分との間には距離がある
そしてそれはだんだん遠のきつつ
いまは一種の幻影だ
記憶よ、そんなものには網打つな
おお大罪惡の幻影!
罪惡はうつくしい
あの大罪惡も吸ひついた蛭のやうにして犯したんだ
けれどその行爲につながる粘粘した醜い感覺
それでもあのまつ暗なぬるぬるしてゐる深い穴から
でてきた時にはほつ[#「ほつ」に傍点]とした
そして危く此の口からすべらすところであつた
この涎と甘いくちつけにけがれた唇から
おお神よと
そして私は身震ひした
それはさて、こんやの時計ののろのろしさはどうだ
迅速に推移しろ
ああ睡い睡い
遠方で一ばん鷄《どり》がないてゐる
もう目がみえない
黎明は何處《どこ》までちかづいて來てゐるか
このままぐつすり寢て起きると
そこに新しい人間がある
ゆふべのことなどわすれてしまつて
はつきりと目ざめ
おきいで
大空でもさしあげるやうな脊伸び
全身につたはる力よ
新しい人間の自分
それがほんとの自分なんだ
此の泥醉と懊惱と疲勞とから
そこから生れでる新しい人間をおもへ!
彼が其時吸ひこむ新鮮な空氣
彼が其時浴びる朝の豐富にして健康な世界一ぱいの日光
どこかで鷄が鳴いてゐる
ああ睡い
ぶつ倒されるほど睡い
自分はへとへとにつかれてゐる
ねかしておくれ
ねかしておくれ
そして自分の此の手を
指をそろへて此の胸の上で組ましておくれ
しかし私に觸つてはいけない
私はひどくけがれてゐる
たつた一とこと言つてくれればいい
誰でもいい
全人類にかはつて言つておくれ
何《なん》にも思はず目を閉ぢよと
それでいい
それでいい
ああ睡い
これでぐつすり朝まで寢られる
朝あけ
朝だ
朝霧の中の畑だ
蜀黍《たうもろこし》とかぼちや[#「かぼちや」に傍点]、豆、芋
――そして
わたしは神を信ずる──
まだ誰も通らないのか
此の畑なかの徑《こみち》を
わたしの顏にひつかかり
ひつかかる蜘蛛の巣
その巣をうつくしく飾る朝露
此のさわやかさはどうだ
――いまこそ
わたしは神を信ずる
※[#ローマ数字10、1−13−30]
生みのくるしみの頌榮
くるしいか
くるしからう
いまこそ
どんなに此のくるしみがしのべるか
おんみは人間の聖母
じつとこらへろ
人間の強さを見せて
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