る。
 自分等が稍ともすると新しきを求むる忙しさに古きを忘れんとして気のつく如く、氏も自然に馴れ、知らずして年齢に屈服し、古きになづんで新しきもののいらいら[#「いらいら」に傍点]せるを嫌ふのではあるまいか。
 自分は新しきものに古い生命を見る。そしてたゞひたすらの生命の退き滞ることなき進行を肯定する。そこに生命としての人間のジユビレヱシヨンを感ずる。
 あなたはサンボリストですか。
 さう、何でせう。――どれにも通じてゐるかも知れません。
 わたしは此の村を見るまで、多少あなたをサンボリツクな画家として、その作品をいつも拝見してゐましたが……。
 へええ。
 いまは或は忠実な自然描写、と言つてもあの所謂自然主義者のそれとは区別してをりますが、其の基調として――では無いかとも思つてをります。
 へええ。
 何となく此の村の自然(形象とし雰囲気としての)がさう私に囁くやうなのです。
 へええ。
 沈黙がすこし続いた。互に、自らの本然世界にしばし帰つたのである。空はます/\陰険になつてきた。夜も闌けてきた。
 沼へでも出かけるといゝんですがね、あいにく今夜は月がない。
 沼つて、いつか虚子のかいた河童の宿の中のあれですか。
 ええ。
 またそのうちにゆつくりおたづねする時までお預けにしておきませう。
 ええ。
 お邪魔を詫びて立つと、お嬢さんが大きな定紋の附いた提灯にひをいれて渡してくれた。芋銭氏は「そこまで見てあげませう。道がわかりにくいから」つて、初めてではあるが長い間の知己ででもあるやうに、深切で、その物言ひぶりまで馴れなれしかつた。さつきのお嫗さんのおばけの所あたりまでくると雨がざあつとやつて来たので、傘を持たない氏は帰られた。
 現在の間口ばかりの画家の中に氏のやうな真摯な芸術家のあることを自分はよろこぶのである。氏に大きな代表的作品のないのは惜しいが、自分は氏をその理由で責めたくない。またどうしてそれが責められよう。そこに何かがある。それが氏の偉大であらう。自分は、よみ返すと随分不遜なことをかいたやうであるが、結局、自分は氏を単なる芸術家とみない。芸術の生活者としてうらやみ、且つ尊敬する。
 自分は、さらに形象の要素と内容の要素との結合に就て、及び形象の稍々複雑となり其の複雑なる内容と並行発展する時、作品の譬喩もしくは寓意となるの過程、ならびに形象の各部がこ
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
山村 暮鳥 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング