小川芋銭
山村暮鳥

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)案外|論理的《ロジカル》に

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)案外|論理的《ロジカル》に

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]の

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 物其のものはそれ自らに於てことごとく生命の一の象徴でなければならぬ。
 また実にその象徴である。
 いつかお目にかゝりたいと思つてからすでに久しいのである、芋銭氏はそんな事は夢にもごぞんじないであらう、それが事実となつた。
 牛久駅に下車した時はもう何処の家にも灯は入つてゐた。自分は恋人に逢ひにでも行くやうな気分で沐浴し、喫餐し、折柄の糠雨を宿で借りた傘で避けながら闇の夜道をいそいだ。をしへられた火の見の下まできた。そこから折れて街道に別れるのであつた。薄暗いところに鐘楼があつて、鳴らす人もないやうな鐘がふらりとぶらさがつてゐる。そろそろ芋銭情調がはじまる。遠くにあたつてこんもりした森はあるが梟の声も聴かれない。こゝは畑の原野である。桑の木の間には胡麻やかぼちやの花がしづかに咲いてゐる。街道ではよく道をたづねたが此所では逢ふ人もないので、多少さみしさと不安とが下駄の足音なんどに交つて迫る。それでも分岐点には道標が立つてゐたので、迷ひもせずにやつとさつき遠くでみた森の所まできた。人声は夜遊びに行くらしい村の若者のそれであつた。道をきいたら深切にをしへてくれた。そこから芋銭氏の村までは近かつた。村に入つての第一印象は竹藪とやぶれた竹垣であつた。そのとつつきの農家に立ちよつてたづねたらそこでも親しくをしへてくれた。自分のすがたが見えなくなつてからも、そこでは壁の内で深切に怒鳴つてゐた。庭にはシンボリツクな桐の木が一本、その傍には風呂桶。此の村、自分にはまるでラビリンスの趣があつた。どこかで死んでゐる蛇の匂ひ、蚕の糞尿の匂ひ、草の匂ひ、獣の匂ひ――時時、白い化物がひよつこり出てくるので、いくどか、傘を楯にしたり、槍にしたりした。こんなことなら明日にすればよかつたと後悔しはじめた頃は、もう芋銭氏の大きな声でもすればきかれる程の距離まですゝんでゐたのである。軒先に蚊遣火など焚いて、寝ころんで笑ひながら馬鹿話をでも
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