雲
山村暮鳥
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大《でつ》かい
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|塊《かたまり》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+云」、第3水準1−14−87]
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序
人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたのか。一生とは、こんな短いものだらうか。これでよいのか。だが、それだからいのちは貴いのであらう。
そこに永遠を思慕するものの寂しさがある。
ふりかへつてみると、自分もたくさんの詩をかいてきた。よくかうして書きつづけてきたものだ。
その詩が、よし、どんなものであらうと、この一すぢにつながる境涯をおもへば、まことに、まことに、それはいたづらごと[#「いたづらごと」に傍点]ではない。
むかしより、ふでをもてあそぶ人多くは、花に耽りて實をそこなひ、實をこのみて風流をわする。
これは芭蕉が感想の一つであるが、ほんとうにそのとほりだ。
また言ふ。――花を愛すべし。實なほ喰ひつべし。
なんといふ童心めいた慾張りの、だがまた、これほど深い實在自然の聲があらうか。
自分にも此の頃になつて、やうやく、さうしたことが沁々と思ひあはされるやうになつた。齡の效かもしれない。
藝術のない生活はたへられない。生活のない藝術もたへられない。藝術か生活か。徹底は、そのどつちかを撰ばせずにはおかない。而も自分にとつては二つながら、どちらも棄てることができない。
これまでの自分には、そこに大きな惱みがあつた。
それならなんぢのいま[#「いま」に傍点]はと問はれたら、どうしよう、かの道元の谿聲山色はあまりにも幽遠である。
かうしてそれを喰べるにあたつて、大地の中からころげでた馬鈴薯をただ合掌禮拜するだけの自分である。
詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。
だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。
詩をつくるより田を作れといふ。よい箴言である。けれど、それだけのことである。
善い詩人は詩をかざらず。
まことの農夫は田に溺れず。
これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。
なんといはう。實に、田の田である。詩の詩である。
――藝術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの藝術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や眞實の行爲に相對するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが藝術をして眞に藝術たらしめるものである。
藝術における氣禀の有無は、ひとへにそこにある。作品が全然或る敍述、表現にをはつてゐるかゐないかは徹頭徹尾、その何か[#「何か」に傍点]の上に關はる。
その妖怪を逃がすな。
それは、だが長い藝術道の體驗においてでなくては捕へられないものらしい。
何よりもよい[#「よい」に傍点]生活のことである。寂しくともくるしくともそのよい生活を生かすためには、お互ひ、精進々々の事。
[#地から5字上げ]茨城縣イソハマにて
[#地から1字上げ]山村暮鳥
春の河
たつぷりと
春の河は
ながれてゐるのか
ゐないのか
ういてゐる
藁くづのうごくので
それとしられる
おなじく
春の、田舍の
大きな河をみるよろこび
そのよろこびを
ゆつたりと雲のやうに
ほがらかに
飽かずながして
それをまたよろこんでみてゐる
おなじく
たつぷりと
春は
小さな川々まで
あふれてゐる
あふれてゐる
蝶々
ふかい
ふかい
なんともいへず
此處はどこだらう
あ、蝶々
おなじく
青空たかく
たかく
どこまでも、どこまでも
舞ひあがつていつた蝶々
あの二つの蝶々
あれつきり
もうかへつては來なかつたか
野良道
こちらむけ
娘達
野良道はいいなあ
花かんざしもいいなあ
麥の穗がでそろつた
ひよいと
ふりむかれたら
まぶしいだらう
大《でつ》かい蕗つ葉をかぶつて
なんともいへずいいなあ
おなじく
野良道で
農婦と農婦とゆきあつて
たちばなししてゐる
どつちもまけ
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