んな生命《いのち》の瀬戸際《せとぎは》で」
「はい。そればかりではありません。世界《せかい》には私《わたし》どもの知《し》らないことが數限《かずかぎ》りなくあります。――小《ちひ》さなところで獨《ひと》り威張《ゐば》つてゐることの」
「え」
「愚《おろか》さがしみじみ、はじめて解《わか》りました」
どうしてのんべえ[#「のんべえ」に傍点]は其酒を止めたか
のんべえ[#「のんべえ」に傍点]ものんべえ[#「のんべえ」に傍点]も怖《おそろ》しいのんべえ[#「のんべえ」に傍点]がありました。その家《いへ》では、それがために一|年《ねん》の三百六十五|日《にち》を、三百|日《にち》ぐらゐは必《かなら》ず喧嘩《けんくわ》で潰《つぶ》すことになつてゐました。
けふもけふとて、ぐでんぐでんに御亭主《ごていしゆ》が醉拂《よつぱら》へてかへつて來《く》ると、お上《かみ》さんが山狼《やまいぬ》のやうな顏《つら》をして吠《ほ》え立《た》てました。なんとゆつても、まるで屍骸《しんだもの》のやうに、ひツくりかへつてはもう正體《しやうたい》も何《なに》もありません。梁《はり》の煤《すゝ》もまひだすやうな鼾《いびき》です。
お上《かみ》さんも呆《あき》れて、だまつてしまふのが例《れい》でした。
不思議《ふしぎ》なこともあるものです。それが今日《けふ》は、何《なに》をおもひだしたのか、目《め》が覺《さ》めると、めそめそ啜《すゝ》り泣《な》きをしながら、何處《どこ》へか出《で》て行《い》つてしまひました。
やがてのんべえ[#「のんべえ」に傍点]は樹深《こぶか》い裏山《うらやま》のお宮《みや》の前《まへ》にあらはれました。[#「あらはれました。」は底本では「あらはれました」と誤記]そして地《ぢ》べたに跪《ひざまづ》いて
「神樣《かみさま》、どうかお聽《き》きになつてください。私《わたし》はあなたもよく御承知《ごしやうち》ののんべえ[#「のんべえ」に傍点]です。私《わたし》がのんべえ[#「のんべえ」に傍点]なために家《いへ》の生計《くらし》は火《ひ》の車《くるま》です。嬶《かゝあ》や子《こ》ども等《ら》のひきづツてゐるぼろ[#「ぼろ」に傍点]をみると、もうやめよう、もうやめよう[#「もうやめよう」は底本では「もうやう」と誤記]とは思《おも》ふんですが、またすぐ酒屋《さかや》の店先《みせさき》をとほつて、あのいいぷうんとくる匂《にほ》ひを嗅《か》ぐと、まつたく理《り》も非《ひ》もなくなるんです。そしてそこへ飛《と》び込《こ》んでしまふんです。神樣《かみさま》、どうしてこんなに嚥《の》みたいんでせう。どうかして此《こ》の呑《の》みたい酒《さけ》をやめることは出來《でき》ないもんでせうか」
神樣《かみさま》はのんべえ[#「のんべえ」に傍点]の涙《なみだ》を御覧《ごらん》になりました。
「そうか。よくわかつた。俺《わし》はお前《まへ》がかわいさうでならない。唯《たゞ》、それだけだ」
「えツ、こんな紙屑《かみくづ》のやうな人間《にんげん》でも、かわいさうに想《おも》つてくださいますか」
「おお、そうおもはなくつてどうする」
「へえゝゝゝゝ」
よろこんだの、よろこばないのつて、のんべえ[#「のんべえ」に傍点]は轉《ころげ》るやうに、よろこんでその山《やま》から家《いへ》に驅《か》け戻《もど》りました。來《き》てみると嬶《かゝあ》も子《こ》どもも誰《だれ》もゐません。
お上《かみ》さんはお上《かみ》さんで、子《こ》ども達《たち》を引《ひ》きつれて御亭主《ごていしゆ》の立去《たちさ》つたあとへ、入《い》れ違《ちが》ひにやつて來《き》ました。
まるで喧嘩《けんくわ》でも賣《う》りにきたやうに
「どうしたもんでせう。神樣《かみさま》。宅《たく》ののんべえ[#「のんべえ」に傍点]ですがね。もうあきれて物《もの》も言《い》へません。妾《わたし》があなたに、あの酒《さけ》の止《や》むやうにつてお願《ねが》ひしたのは百ぺんや二百ぺんではありません。けれど止《や》むどころか、あの通《とほ》りです。けふは妾《わたし》に何《なに》か言《ゆ》はれたのがよくよく、くやしかつたとみえまして、目《め》が覺《さ》めると、しくしく泣《な》きながら、また出《で》て行《い》つたんです。屹度《きつと》、酒屋《さかや》へです。私《わたし》は酒《さけ》を憎《にく》みます。そのためにどうでせう、妾《わたし》や子《こ》ども等《ら》は年《ねん》が年中《ねんぢう》、食《く》ふや食《く》はずなんです。神樣《かみさま》、なんとか仰《おつしや》つてくれませんか。どうしてあなたはあんな酒《さけ》の造《つく》り方《かた》なんか人間《にんげん》にお教《をし》えになつたんです。妾《わたし》はあなたを恨《うら》みます」と、喚《わめ》きました。
神樣《かみさま》は、前《まへ》とおなじやうに
「そうか。よくわかつた。俺《わし》はお前達《まへたち》がかわいさうでならない。唯《たゞ》、それだけだ」
「えツ。唯《たゞ》、それだけですつて。ぢあ、酒《さけ》の方《ほう》はどうしてくださるんです」
「それは俺《わし》の知《し》つたことではない」
「まあ、此《こ》の神樣《かみさま》は」
「なんだ」
「酒《さけ》の方《はう》をどうして、くださるつて言《ゆ》つてるじやありませんか」
「そんなことは惡魔《あくま》に聞《き》け!」
ぷりぷり怒《おこ》つてお上《かみ》さんは歸《かへ》りました。歸《かへ》りながら考《かんが》えました。「ええ、馬鹿《ばか》つくせえ。何《なん》とでもなるやうになれだ」と、途中《とちう》で、あらうことかあるまいことか女《をんな》の癖《くせ》に、酒屋《さかや》へその足《あし》ではいりました。
底抜《そこぬ》けにひツ傾《か》けた證據《しやうこ》の千鳥《ちどり》あし、それをやつと踏《ふ》みしめて家《いへ》の閾《しきゐ》を跨《また》ぎながら
「やい、宿《やど》六、飯《めし》をだしてくれ、飯《めし》を。腹《はら》がぺこぺこだ。え。こんなに暗《くら》くなつたに、まだランプも點《つ》けやがらねえのか。え、おい」
おどろいたのは御亭主《ごていしゆ》でした。大變《たいへん》なことになつたものです。天地《てんち》が、ひつくりかえつたやうです。そんな日《ひ》がそれ以來《いらい》、幾日《いくにち》も幾日《いくにち》も續《つゞ》きました。餘《あま》りのおどろきに御亭主《ごていしゆ》は、自分《じぶん》の酒慾《しゆよく》も何《なに》もすつかり、どこへか忘《わす》れました。そして眞面目《まじめ》に働《はたら》きだしました。
するとお上《かみ》さんも考《かんが》えました。その不品行《ふひんかう》が耻《はづか》しくなつて來《き》たのです。
或《あ》る日《ひ》、夫婦《ふうふ》して仲睦《なかむつま》じくお茶《ちや》をのんでゐると、そこへ雉《きじ》の子《こ》が木《き》の葉《は》を一つ葉《ぱ》、啣《くわ》えてきて、おいて行《ゆ》きました。それは裏山《うらやま》の神樣《かみさま》からでした。何《なに》か書《か》いてありました。みると
「さあ、これでお前達《まへたち》の願望《ねがい》はかなつた」
ささげの秘曲
朝露《あさつゆ》が一めんにをりてゐました。ささげ畑《ばたけ》では、ささげが繊《ほそ》い細《ほそ》いあるかないかの銀線《ぎんせん》の、否《いな》、むづかしくいふなら、永遠《えいゑん》を刹那《せつな》に生《い》きてもききたいやうな音《ね》のでる樂器《がくき》に、その聲《こゑ》をあはせて、頻《しきり》に小唄《こうた》をうたつてゐました。
けさも貧《まづ》しい病詩人《びやうしじん》がほれぼれとそれをきいてゐました。他《ほか》のものの跫音《あしをと》がすると、ぴつたり止《や》むので、誰《だれ》もそれを聽《き》いたものはありません。
そのうた――
どこにおちても俺等《わしら》は生《は》へる
はなもさかせる
みもむすぶ
そしてまあ
何《なん》てきれいな世界《せかい》だろ
[#明らかな誤字・脱字、判読不能などの箇所の修正は、「山村暮鳥全集 第三巻」筑摩書房 1989(平成元)年9月30日初版発行 を参考にした。]
底本:「ちるちる・みちる 山村暮鳥童話集」名著復刻 日本児童文学館、ほるぷ出版
1974(昭和49)年5月初版発行
底本の親本:「ちるちる・みちる 山村暮鳥童話集」落陽堂
1920(大正9)年8月22日初版発行
入力:橋本山吹
校正:トム猫
1999年11月11日公開
青空文庫作成ファイル:
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