枯尾花
関根黙庵
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)北千住《きたせんじゅう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)或《ある》時|素人連《しろうとれん》の
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]
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◎北千住《きたせんじゅう》に今も有る何《な》んとか云う小間物屋の以前《もと》の営業《しょうばい》は寄席であったが、亭主が或る娼妓《しょうぎ》に精神《うつつ》をぬかし、子まである本妻を虐待《ぎゃくたい》して死に至らしめた、その怨念が残ったのか、それからと云うものはこの家に奇《あや》しい事が度々《たびたび》あって驚《おど》ろかされた芸人も却々《なかなか》多いとの事であるが、或《ある》時|素人連《しろうとれん》の女芝居を興行した際、座頭《ざがしら》の某《ぼう》が急に腹痛を起《おこ》し、雪隠《せっちん》へはいっているとも知らず、席亭《せきてい》の主人が便所へ出掛けて行く、中の役者が戸を明《あけ》て出る機会《とたん》、その女の顔を見るが否や、席亭《せきてい》の主人は叫喚《きゃっ》と云って後ろへ転倒《ひっくらかえ》り汝《てめえ》まだ迷っているか堪忍してくれと拝《おが》みたおされ。女俳優《おんなやくしゃ》はあべこべに吃驚《びっくり》して、癪《しゃく》を起《おこ》したなどは滑稽だ。
◎京都《きょうと》の某壮士或る事件を頼まれ、神戸《こうべ》へ赴き三日|斗《ばか》りで、帰る積《つも》りのところが十日もかかり、その上に示談金が取れず、貯《たくわ》えの旅費は支《つか》いきり、帰りの汽車賃にも差支《さしつか》え、拠無《よんどころな》く夕方から徒歩で大坂《おおさか》まで出掛《でかけ》る途中、西《にし》の宮《みや》と尼《あま》が崎《さき》の間《あい》だで非常に草臥《くたび》れ、辻堂《つじどう》の椽側《えんがわ》に腰を掛《かけ》て休息していると、脇の細道の方から戛々《かつかつ》と音をさせて何か来る者がある、月が有るから透《すか》して見ると驚《おどろい》た、白糸縅《しらいとおどし》の鎧《よろい》に鍬形打《くわがたうち》たる兜《かぶと》を戴《いただ》き、大太刀を佩《お》び手に十文字の鎗《やり》を提《さ》げ容貌堂々|威風凜々《いふうりんりん》たる武者である、某はあまり意外なものに出会い呆然《ぼうぜん》として見詰《みつめ》ているうち、彼《か》の武者は悠々《ゆうゆう》として西の宮の方へ行《いっ》てしまったが、何が為《た》めに深夜こんな形相《ぎょうそう》をして、往来をするのか人間だろうか妖怪だろうか、思えば思うほど、不審が晴れぬと語りしは、今から七八年あとの事である。
◎浅草《あさくさ》の或る寺の住持《じゅうじ》まだ坊主にならぬ壮年の頃|過《あやま》つ事あって生家を追われ、下総《しもうさ》の東金《とうかね》に親類が有るので、当分厄介になる心算《つもり》で出立《しゅったつ》した途中、船橋《ふなばし》と云う所で某《ある》妓楼《ぎろう》へ上《あが》り、相方《あいかた》を定めて熟睡せしが、深夜と思う時分|不斗《ふと》目を覚《さま》して見ると、一人であるべき筈の相方《あいかた》の娼妓《しょうぎ》が両人《ふたり》になり、しかも左右に分《わか》れて能《よ》く眠っているのだ、有る可《べ》き事とも思われず吃驚《びっくり》したが、この人若いに似合《にあわ》ず沈着《おちつい》た質《たち》ゆえ気を鎮《しず》めて、見詰めおりしが眼元《めもと》口元《くちもと》は勿論《もちろん》、頭の櫛《くし》から衣類までが同様《ひとつ》ゆえ、始めて怪物《かいぶつ》なりと思い、叫喚《あっ》と云って立上《たちあが》る胖響《ものおと》に、女も眼を覚《さま》して起上《おきあが》ると見る間に、一人は消えて一人は残り、何に驚《おど》ろいて起《おき》たのかと聞《きか》れ、実は斯々《これこれ》と伍什《いちぶしじゅう》を語るに、女|不審《いぶかし》げにこのほども或る客と同衾《どうきん》せしに、同じ様な事あり畢竟《ひっきょう》何故《なにゆえ》とも分明《わか》らねど世間に知れれば当楼《このうち》の暖簾《のれん》に疵《きず》が付《つく》べし、この事は当場《このば》ぎり他言は御無用に願うと、依嘱《たのま》れ畏々《おそるおそる》一《ひ》ト夜《よ》を明《あか》したる事ありと、僕に話したが昔時《むかし》の武辺者《ぶへんしゃ》に、似通った逸事《いつじ》の有る事を、何やらの随筆本で見たような気もする。
◎これは些《ちと》古いが、旧幕府の頃|南茅場町《みなみかやばちょう》辺の或る者、乳呑子《ちのみご》を置《おい》て女房に亡《なく》なられ、その日稼ぎの貧棒人《びんぼうにん》とて、里子に遣《や》る手当《てあて》も出来ず、乳が足《たり》ぬので泣《なき》せがむ子を、貰《もら》い乳《ちち》して養いおりしが、始終子供に斗《ばか》り掛《かか》っていれば生活が出来ないから、拠無《よんどころな》くこの児《こ》を寐《ね》かしつけ、泣《ない》たらこれを与えてくれと、おもゆ[#「おもゆ」に傍点]を拵《こしら》えて隣家の女房に頼み、心ならずも商《あきな》いをしまい夕方帰《かえっ》て留守中の容子《ようす》を聞くと、例《いつ》も灯《ひ》の付《つく》ように泣児《なくこ》が、一日一回も泣《なか》ぬと言《いわ》れ、不審ながらも悦《よろこ》んで、それからもその通りにして毎日、商《あきな》いに出向《でむく》に何《なに》とても、留守中一回も泣《ない》た事が無く、しかも肥太《こえふと》りて丈夫に育つ事、あまりに不思議と、我も思えば人も思い、段々《だんだん》噂が高くなり、遂《つい》には母の亡霊|来《きた》りて、乳を呑《のま》すのだと云うこと、大評判となり家主より、町奉行所へ訴《うっ》たえ出たる事ありと、或る老人の話しなるが、それか有《あら》ぬか兎《と》に角《かく》、食物を与えざるも泣《なく》こと無く、加之《しかのみならず》子供が肥太《こえふと》りて、無事に成長せしは、珍と云うべし。
◎伊賀《いが》の上野《うえの》は旧|藤堂《とうどう》侯の領分だが藩政の頃|犯状《はんじょう》明《あきら》かならず、去迚《さりとて》放還《ほうかん》も為し難き、俗に行悩《ゆきなや》みの咎人《とがにん》ある時は、本城《ほんじょう》伊勢《いせ》の安濃津《あのつ》へ差送《さしおく》ると号《ごう》し、途中に於《おい》て護送者が男は陰嚢《いんのう》女は乳《ちち》を打《うっ》て即死せしめ、死骸を路傍の穴へ蹴込《けこみ》て、落着《らくちゃく》せしむる事あり、或《ある》時亭主殺しの疑いある女にて、繋獄《けいごく》三年に及ぶも証拠|上《あが》らずされば迚《とて》追放にもなし難く、例の通りこの刑を行《おこな》いしが、その婦人の霊、護送者の家へ尋ね行き、今日《こんにち》は御主人にお手数《てかず》を掛《かけ》たり、御帰宅あらば宜敷《よろしく》と云置《いいお》き、忽《たちま》ち影を見失いぬ、妻不思議に思いいるところへ、主人《あるじ》帰り来《きた》りしかば、こうこうと物語りしに、主人《あるじ》色を変じて容貌|風体《ふうてい》などを糺《ただ》し、それこそ今日《きょう》手に掛《かけ》たる女なり、役目とは云いながら、罪作りの所為《わざ》なり、以来は為すまじき事よと、後悔して後《の》ち百姓となり、無事に一生を送りしと、僕上野に遊んだ際、この穴を見たが惜《おし》いかな、土地の名を聞洩《ききもら》した、何でも直《じ》き上に寺のある、往来の左方《ひだり》だと記憶している。
◎先代の坂東秀調《ばんどうしゅうちょう》壮年の時分、伊勢《いせ》の津《つ》へ興行に赴き、同所|八幡《やはた》の娼家|山半楼《やまはんろう》の内芸者《うちげいしゃ》、八重吉《やえきち》と関係を結び、折々《おりおり》遊びに行きしが、或《ある》夜鰻を誂《あつら》え八重吉と一酌中《いっしゃくちゅう》、彼が他《た》の客席へ招かれた後《あと》、突然年若き病人らしい、婦人が来て、妾《わたし》は当楼《こちら》の娼妓《しょうぎ》で、トヤについて食が進まず、鰻を食《たべ》たいが買う力が無いと、涙を流して話すのを、秀調哀れに思いその鰻を与えしに、彼はペロリと食《たべ》て厚く礼を言い、出て往《いっ》た後《あと》間も無く八重吉が戻って、その話を聞きまたしても畜生がと、大層《たいそう》立腹せしに驚き秀調その訳を訊ねしに、こは当楼の後ろの大薮に数年《すねん》住《すん》でいる狸の所為《しわざ》にて、毎度この術《て》で高味《うまい》ものをして[#「して」に白丸傍点]やらるると聞き、始めて化《ばか》されたと気が付《つい》て、果《はて》は大笑いをしたが、化物《ばけもの》と直接応対したのは、自分|斗《ばか》りであろうと、誇乎《ほこりか》に語りしも可笑《おか》し。
◎維新少し前の事だ、重罪犯の夫婦が伝馬町《でんまちょう》の牢内へはいった事がある、素《もと》より男牢と女牢とは別々であるが、或《ある》夜女牢の方に眠りいたる女房の元へ夢の如く、亭主が姿を現わし、自個《おれ》も近々《ちかぢか》年が明くから、草鞋《わらじ》を算段してくれと云う、女房不審に思ううち、夢が消《きえ》てしまった、大方夫婦の情で案じているから、こんな夢を見るのだろうと思いおりしに、翌晩から同じ刻限に三晩続け、殊《こと》に最後の夜の如きは、愚痴ッぽい事を云《いっ》て消失《きえ》た、あまり不思議だから女房は翌日、牢番に次第を物語った、すると死刑になる囚人には、折々ある事だ願ってみろと言《いわ》れ、右の趣を石出帯刀《いしでたてわき》まで申し出で、聞済《ききず》みになりて草鞋《わらじ》を下げ渡されたが、その翌日亭主は斬罪に行なわれ、女房は重追放で落着《らくちゃく》したそうだ、最も牢内には却々《なかなか》お化種《ばけだね》は、豊富であると、牢の役人から聞《きい》た事を思い出した。
◎大阪《おおさか》俳優|中村福円《なかむらふくえん》の以前《もと》の住居《すまい》は、鰻谷《うなぎだに》の東《ひがし》の町《ちょう》であったが、弟子の琴之助《ことのすけ》が肺病に罹《かか》り余程の重態なれど、頼母《たのも》しい親族も無く難義《なんぎ》すると聞き自宅へ引取《ひきとり》やりしが、福円の妻女は至って優しい慈悲深き質《たち》ゆえ親も及ばぬほど看病に心を竭《つく》し、後《の》ち桃山《ももやま》の病院にまで入《いれ》て、世話をしてやった、すると或《ある》夜琴之助が帰り来《きた》り、最《も》う全治《なおり》ましたからお礼に来ましたと、云《いっ》たがその時は別に奇《あや》しいとも思わず、それは結構だ早く二階へ上ってお寝《ね》と云《いわ》れ当人が二階へ上って行く後姿《うしろすがた》を認めた頃、ドンドンと門を叩く者がある、下女を起《おこ》して聞《きか》せるとこれは病院の使《つかい》で、当家《こちら》のお弟子さんが危篤ゆえ知《しら》せると云《いわ》れ、妻女は偖《さて》はそれ故《ゆえ》姿を現《あらわ》したかと一層《いっそう》不便《ふびん》に思い、その使《つかい》と倶《とも》に病院へ車を飛《とば》したが最《も》う間に合《あわ》ず、彼は死んで横倒《よこたわ》っていたのである、妻女は愈々《いよいよ》哀れに思い死骸を引取《ひきと》り、厚く埋葬を為《し》てやったが、丁度《ちょうど》三七日の逮夜《たいや》に何か拵《こしら》えて、近所へ配ろうとその用意をしているところへ、東洋鮨《とうようずし》から鮨の折詰《おりづめ》を沢山|持来《もちきた》りしに不審晴れず、奈何《いか》なる事情《わけ》と訊問《たずね》しに、昨夜|廿一二《にじゅういちに》のこうこう云う当家《こなた》のお弟子が見えて、翌日《あす》仏事があるから十五軒前|折詰《おりづめ》にして、持《もっ》て来てくれと誂《あつら》えられましたと話され、家内中顔を見合せて驚き、それは幽霊が往《いっ》たのだろうとも云《いわ》れず、右の鮨を残らず引受《ひき
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