う》け、近所へ配って回向《えこう》をしてやったそうだが、配る家が一軒も過不足なく、その数通りであったと云うは一寸《ちょっと》変っている怪談であろう。

◎紀州高野山《きしゅうこうやさん》の道中で、椎出《しいで》から神谷《かみや》の中間に、餓鬼坂《がきざか》と云うがある、霊山を前に迎えて風光明媚《ふうこうめいび》な処《ところ》に、こんな忌々《いまいま》しい名の坂のあるのは、誰でも変に感じられるが四五年以前|或《ある》僧が此処《ここ》で腹を減《へら》し前へも出られず、後へも戻れず、立《たち》すくみになって、非常に弱《よわっ》ていると、参詣の老人がそれを認めて、必然《きっと》餓鬼《がき》が着《き》たのだ何か食うと直《す》ぐ治ると云って、持《もっ》ている饅頭《まんじゅう》を呉《く》れた、僧は悦《よろこ》んで一ツ食《くっ》たが、奈何《いか》にも不思議、気分が平常に復してサッサッと歩いて無事に登山が出来たと話した事があった、此処《ここ》は妙な処《ところ》で馬でも何でも腹が減ると、立《たち》すくみになると云い伝え、毎日何百|疋《ぴき》とも知れず、荷を付けて上り下りをする馬士《まご》まで、まさかの用心に握り飯を携帯《もた》ぬ者は無いとの事だ、考《かん》がえてみると何だか怪しく思われぬでも無い。

◎京都《きょうと》の画工某の家《いえ》は、清水《きよみず》から高台寺《こうだいじ》へ行《ゆ》く間だが、この家の召仕《めしつかい》の僕《ぼく》が不埒《ふらち》を働き、主人の妻と幼児とを絞殺《こうさつ》し、火を放ってその家を焼《やい》た事があるそうだ、ところで犯人も到底《とうてい》知《しれ》ずにはいまいと考え、ほとぼりのさめた頃京都市を脱出《ぬけだ》して、大津《おおつ》まで来た時何か変な事があったが、それを耐《こら》えて土山宿《つちやまじゅく》まで漸《ようや》く落延《おちの》び、同所の大野家《おおのや》と云う旅宿屋《やどや》へ泊ると、下女が三人前の膳を持出《もちだ》し、二人分をやや上座《かみくら》へ据《す》え、残りの膳をその男の前へ直《なお》した、男も不思議に思い、一人の客に三人前の膳を出すのは如何《どう》いう訳だと聞くと、下女は訝《いぶかし》げに三人のお客様ゆえ、三膳出しましたと云《いっ》て、却《かえ》ってこの男を怪《あやし》んだ、爰《ここ》に於《おい》てこの男は主人の妻子が付纏《つきまと》って、こんな不思議を見せるのだと思い、迚《とて》も※[#「二点しんにょう+官」、第3水準1−92−56]《のが》れぬと観念した、自訴《じそ》せんと取《とっ》て返《か》えす途上|捕縛《ほばく》されて、重刑に処せられた、これは当時この犯人捜索を担当して尽力した京都警察本部の某刑事の話しである。

◎先年|伊勢《いせ》の津《つ》へ赴き、二週間|斗《ばか》り滞在した事があった、或《ある》夜友人に招かれて、贄崎《にえさき》の寿楼《ことぶきろう》で一酌を催し、是非《ぜひ》泊れと云《いっ》たが、少し都合が有《あっ》て、同所を辞したのは午前一時頃である、楼婢《ろうひ》を介して車を頼《たのん》だが、深更《しんこう》に仮托《かま》けて応じてくれ無い、止むを得ず雨を衝《つい》て、寂莫《じゃくばく》たる長堤を辛《ようや》く城内まで漕《こぎ》つけ、藤堂采女《とうどううねめ》、玉置小平太《たまおきこへいた》抔《など》云う、藩政時分の家老屋敷の並んでいる、里俗鰡堀《りぼくりゅうぼり》へ差懸《さしかか》ると俄然《がぜん》、紫電一閃《しでんいっせん》忽《たちま》ち足元が明《あかる》く成《なっ》た、驚《おどろい》て見ると丸太ほどの火柱が、光りを放って空中へ上る事、幾百メートルとも、測量の出来ぬくらいである、頓《やが》てそれがハラハラと四方に飛散する状《さま》は、恰《あたか》も線香花火の消《きえ》るようであった、雨は篠《しの》を束《つか》ねて投《なぐ》る如きドシャ降り、刻限は午前二時だ、僕ならずとも誰でもあまり感心《かんしん》はしまい。翌日旅館の主人に当夜の恐怖談をすると、彼は微笑して嘲《あざけ》るかの如き口吻《こうふん》で、由来伊勢には天火が多い、阿漕《あこぎ》の浦《うら》の入口に柳山《やなぎやま》と云う所がある、此処《ここ》に石の五重の塔があって、この辺《あたり》から火の玉が発し、通行人を驚かす事は度々《たびたび》ある、君が鰡堀《りゅうぼり》で出会《であっ》たのも大体《だいたい》同種の物だろう、と云いおわって、他を語り毫《ごう》も不思議らしくなかったのが、僕には妙に不思議に感じられた。

◎木挽町《こびきちょう》五丁目辺の或る待合《まちあい》へ、二三年以前|新橋《しんばし》の芸妓《げいぎ》某が、本町《ほんちょう》辺の客を咥《くわ》え込んで、泊った事が有った、何でも明方だそうだが、客が眼を覚して枕を擡《もたげ》ると、坐敷の隅《すみ》に何か居るようだ、ハテなと思い眼をすえて熟視《よくみ》ると、三十くらいで細面《ほそおもて》の痩《やせ》た年増が、赤児に乳房をふくませ、悄然《しょうぜん》として、乳を呑《のま》せていたのである、この客|平常《つね》は威張屋《いばりや》だが余程臆病だと見え、叫喚《あっ》と云って慄《ふる》え出し、飲《のん》だ酒も一時に醒《さめ》て、最《も》う最《も》うこんな家《うち》には片時も居られないと、襖《ふすま》を蹴《け》ひらき倉皇《そうこう》表へ飛出《とびだ》してしまい芸妓《げいぎ》も客の叫喚《さけび》に驚いて目を覚《さま》し、幽霊と聞《きい》たので青くなり、これまた慌てて帰ったとの事だが、この噂が溌《ぱっ》と立《たっ》て、客人の足が絶え営業の継続が出来ず、遂々《とうとう》この家《いえ》も営業《しょうばい》を廃《やめ》て、何処《どこ》へか転宅《てんたく》してしまったそうだ、それに付き或る者の話を聞くに、この家は以前《もと》土蔵を毀《こわ》した跡へ建《たて》たのだが、土蔵の在《あっ》た頃当時の住居人《すまいにん》某《それ》の女房《にょうぼ》が、良人《おっと》に非常なる逆待《ぎゃくたい》を受け、嬰児《こども》を抱いたまま棟木《むなぎ》に首を吊《つっ》て、非命の最期を遂げた、その恨みが残ったと見えて、それから変事が続きて住《すま》いきれず、売物に出したのを或《ある》者が買《かい》うけ、その土蔵を取払《とりはら》って家を建直《たてなお》したのだが、未《いま》だに時々不思議な事があるので、何代|替《かわ》っても長く住む者が無いとの事である。

◎山城《やましろ》の相楽郡木津《さがらぐんきづ》辺の或る寺に某と云う納所《なっしょ》があった、身分柄を思わぬ殺生好《せっしょうずき》で、師の坊の誡《いまし》めを物ともせず、例《いつ》も大雨の後には寺の裏手の小溝へ出掛け、待網を掛けて雑魚《ざこ》を捕り窃《ひそ》かに寺へ持帰《もちかえ》って賞玩《しょうがん》するのだ、この事|檀家《だんか》の告発に依《よ》り師の坊も捨置《すておき》がたく、十分に訓誡《くんかい》して放逐《ほうちく》しようと思っていると、当人の方でも予《あらかじ》めその辺《あたり》の消息を知り、放逐《ほうちく》されると覚悟をすれば、何も畏《おそ》れる事は無いと度胸を極《き》め、或《ある》夜師の坊の寝息を考え、本堂の橡《えん》の下に隠してある、例の待網を取出《とりだ》して彼《か》の小溝へ掛けたが、今夜は如何《どう》した訳か、雑魚《ざこ》一|疋《ぴき》懸《かか》らない、万一や網でも損じてはいぬかと、調べてみたがそうでも無い、只管《ひたすら》不思議に思って水面《みなも》を見詰《みつめ》ていると、何やら大きな魚がドサリと網へ引掛《ひっかか》った、その響《ひびき》は却々《なかなか》尋常で無《なか》った、坊主は〆《しめ》たりと思い引上《ひきあ》げようとすると、こは如何《いか》にその魚らしいものが一躍して岡へ飛上《とびあが》り、坊主の前をスルスルと歩いて通りぬけ、待網の後《うしろ》の方から水音高く、再び飛入《とびい》って遂《つい》に逃げてしまった、大きさは約四尺も有《あろ》う、真黒で頭の大きい何とも分らぬ怪物《かいぶつ》だ、流石《さすが》の悪僧も目前にこんな奇《あや》しみを見て深く身の非を知りその夜住職を起《おこ》してこの事を懺悔《ざんげ》し、その後は打《うっ》て変って品行を謹しみ、今は大坂《おおさか》の某寺の院主と為《な》っているとの事だ。



底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 百物語怪談会」ちくま文庫、筑摩書房
   2007(平成19)年7月10日第1刷発行
底本の親本:「新小説 明治四十四年十二月号」春陽堂
   1911(明治44)年12月
初出:「新小説 明治四十四年十二月号」春陽堂
   1911(明治44)年12月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年9月26日作成
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