死神
岡崎雪聲

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)放歌《ほうか》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)近頃|大分《だいぶ》
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 往来で放歌《ほうか》をすることは、近頃|大分《だいぶ》厳《やか》ましくなったが、或《ある》意味からいうと許してもよさそうなものだ、というのは、淋しい所などを夜遅く一人などで通る時には、黙って行くと、自然|下《くだ》らぬ考事《かんがえごと》などが起《おこ》って、遂《つい》には何かに襲われるといったような事がある、もしこの場合に、謡曲《うたい》の好きな人なら、それを唸《うな》るとか、詩吟《しぎん》を口吟《くちずさ》むとか、清元《きよもと》をやるとか、何か気を紛《まぎ》らして、そんな満《つま》らぬ考《かんがえ》を打消《うちけ》すと、結局《けっく》夢中にそんな所も過ぎるので、これ等《ら》は誠《まこと》によいことだと自分は思う。
 明治十一年のこと、当時私は未《ま》だ廿五《にじゅうご》歳の青年であったが、東京《とうきょう》へ上京して四年後で、芝《しば》の花園橋《はなぞのばし》の直《す》ぐ近所の鈴木《すずき》某氏の門弟であった頃だ。私は一日と十五日との休日には、仮令《たとえ》雨がふっても雪がふっても、必ず自分の宿になってくれた、谷中清水町《やなかしみずちょう》の高橋《たかはし》某氏の家へ遊びに行ったものだ。それは恰《あだか》も旧暦八月の一日の夜で、即《すなわ》ち名月の晩だったが、私は例の通り、師匠の家《うち》をその朝早く出て、谷中に行って、終日遊んでとうとう夜食を馳走になって、彼処《あちら》を出たのが、九時少し前、てくてく歩きながら帰途に就いたが、まだその時分のことで、あれから芝まで来る道には、随分《ずいぶん》淋しい所もあった。しかし何しろ秋の夜の空は拭《ぬぐ》った様に晴れ渡って、月は天心《てんしん》に皎々《こうこう》と冴えているので、四隣《あたり》はまるで昼間のように明るい。人の心というものは奇妙で、月を見たり花を見たりすると一種の考《かんがえ》が起《おこ》るものだから、自分も今宵《こよい》露に湿《うるお》った地に映る我影《わがかげ》を見ながら、黙って歩いて来ると偶然故郷のことなどが、頭脳《あたま》に浮んだ、漸々《だんだん》自分の行末《いくすえ》までが気にかかり、こうして東京に出て来たものの、何日《
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