にと買い賜《たま》われたものだ、数千《すせん》人の聴客を以《もっ》て満たされた、公開堂《こうかいどう》の壇上、華かなる電燈の下で、満場の聴衆が喝采《かっさい》の内に弾きならしたはこの琴であります、またこの一|面《めん》は過ぎし日|妾《わたし》が初めて、自宅《うち》にて教授をする時に妾《わたし》の僅《わず》かなるたくわえにて購《あがな》いしもので、二面共に妾《わたし》にとっては忘る可《べか》らざる紀念《きねん》の品である、のみならず、この苦しく悲しき長《なが》の月日のこの中外《うちそと》を慰めたのもこの品、仮令《たとえ》妾《わたし》には数万金《すまんきん》を積むとてかえがたき二品《ふたしな》なれど、今の際《きわ》なれば是非も一なく、惜しけれど、終《つい》に人手にわたす妾《わが》胸中は如何《いか》ばかり淋しき思《おもい》のするかは推《すい》したまわれ、されど、たとえ人手に渡さばとて、やがてこの二面の琴は、師の君が同門の人に由《よ》りて購《あがな》わるることを保証します。自分は今この二品《ふたしな》の琴樋《ことひ》の裏に貼紙をなして妾《わたし》の日頃|愛玩《あいがん》せることを記しおきければ、やがて、その人に由《よ》りて、これを知らるるでありましょう、これは今より確言《かくげん》をしておきます……
他《た》に未《ま》だ何か記してあったが、遺書の大体の意味はこういうのであった。
談《はなし》変って、私は丁度《ちょうど》その八月十九日に出発して、当時は京都から故郷なる備中連島《びっちゅうつらじま》へ帰省《きしょう》をしていた薄田泣菫《すすきだきゅうきん》氏の家を用向《ようむき》あって訪ねたのである、そして、同氏の家に三日ばかり滞在していた、ところが、その廿一日《にじゅういち》の夜には、氏の親戚を初め近隣の人々を集めて、或る場所で自分の琴を聴かした、十時少し前後演奏が終りて、私は同氏の家へ帰って泣菫氏と共に、枕を並べて寝《しん》に就《つ》いた、
すると恰《あだか》も十二時過ぎたかそれとも十二時頃だったか、私の寝ていた傍《そば》の床《とこ》の間《ま》に立て懸けておいた、琴が突然音を立てて鳴り出したのである、泣菫氏は最早《もう》よく寝ていたので、少しも知らぬ、室内には、薄燈《うすあかり》がついていたので、私は驚きながらも枕から頭《かしら》を擡《もた》げて、何《いず》れの糸が鳴
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