雪の透く袖
鈴木鼓村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)繰《く》る

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)明治|廿二《にじゅうに》年
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 古びた手帳を繰《く》ると、明治|廿二《にじゅうに》年の秋、私は東北の或《ある》聯隊《れんたい》に軍曹をして奉職していたことがあった。丁度《ちょうど》その年自分は教導団を卒業した、まだうら若い青年であった。
 当時、その聯隊《れんたい》の秋季機動演習は、会津《あいづ》の若松《わかまつ》の近傍《きんぼう》で、師団演習を終えて、後《のち》、我|聯隊《れんたい》はその地で同旅団の新発田《しばた》の歩兵十六|聯隊《れんたい》と分れて、若松から喜多方《きたかた》を経て、大塩峠《おおしおとうげ》を越え、磐梯山《ばんだいさん》を後方《うしろ》にして、檜原《ひばら》の山宿《やまじゅく》に一泊し、終《つい》に岩代《いわしろ》、羽前《うぜん》の境である檜原峠《ひばらとうげ》を越えて、かの最上川《もがみかわ》の上流の綱木《つなき》に出《い》で、そして米沢《よねぎわ》まで旅次《りょじ》行軍を続けたのであった。
 時は十一月の中旬、東北地方は既に厳霜凄風《げんそうせいふう》に搏《う》たれて、ただ見る万山《ばんざん》の紅葉は宛《さなが》らに錦繍《きんしゅう》を列《つらぬ》るが如く、到処秋景惨憺《いたるところしゅうけいさんたん》として、蕭殺《しょうざつ》の気が四隣《あたり》に充《み》ちている候《こう》であった、殊《こと》にこの地は東北に師団を置きて以来、吾々が初めて通る難路のことであるから、一層《いっそう》に吾々の好奇心を喚起《よびおこ》したのであった。第一、この会津地方には一般怪談の如きは乏《とぼ》しくない、殊《こと》に前年|即《すなわ》ち明治|廿一《にじゅういち》年七月十五日には、かの磐梯山が噴火して、為《た》めに、そのすぐ下に横たわる猪苗代湖《いなわしろこ》に注ぐ、長瀬川《ながせがわ》の上流を、熔岩《ラバー》を以《もっ》て閉じた為《た》めに、ここに秋元湖《しゅうげんこ》檜原湖と称する、数里にわたる新らしい湖を谿谷《けいこく》の間に現出した、その一年後のことであるから、吾々の眼にふるる処《ところ》、何《いず》れも当時の惨状を想像されない処《ところ》はなかった、且《か》つその山麓の諸温泉には、例の雪女郎《ゆきじょろう》の談《はなし》だの、同山の一部である猫魔山《ねこまやま》の古い伝説等は、吾々をして、一層《いっそう》凄い感を起《おこ》さしたのである。
 そして、この檜原の宿《しゅく》とても、土地の人から聞くと、つい昨年までは、その眼の前に見える湖の下にあったものが、当時、上から替地《かえち》を、元の山宿《やましゅく》であった絶項の峠の上に当《あた》る、この地に貰って、漸《ようや》くに人々が立退《たちの》いたとのことである。
 吾々は、次《つ》ぎの日に、この新らしき湖を、分隊|毎《ごと》に分れて、渉《わた》ったが、この時の絶景といったら、実に筆紙《ひつし》にも尽《つく》し難い、仰向いて見れば、四方の山々の樹々が皆|錦《にしき》を飾って、それが今|渉《わた》っている、真青に澄切ってる、この湖に映じて、如何《いか》な風流気のない唐変木《とうへんぼく》も、思わず呀《あっ》と叫ばずにはおられない、よく談話《はなし》にきく、瑞西《すいつる》のゲネパ湖の景《けい》も、斯《か》くやと思われたのであった、何様《なにさま》、新湖《しんこ》のこととて、未《ま》だ生々しいところが、往々《おうおう》にして見える、船頭の指すが儘《まま》に眺めると、その当時までは、村の西にあって、幾階段かを上ったという、村の鎮守の八幡の社《やしろ》も、今|吾人《ごじん》の眼には、恰《あだか》もかの厳島《いつくしま》の社の廻廊が満つる潮に洗われておるかのように見える、もっと驚いたのは、この澄んでいる水面から、深い水底《みなそこ》を見下すと、土蔵の白堊《はくあ》のまだ頽《こわ》れないのが、まざまざとして発見されたのであった、その他湖上の処々《しょしょ》に、青い松の木が、ヌッと突出《つきで》ていたり、真赤に熟した柿の実の鈴生《すずなり》になっておる柿の木が、とる人とてもなく淋しく立っているなど、到底《とうてい》一寸《ちょっと》吾々が想像のつかぬ程の四辺《あたり》の光景に、いたく異様の感を催して、やがてかの東北有数の嶮阪《けんはん》なる○○峠を越えて、その日の夕暮近く、兼《かね》て期定《きてい》されたる、米沢の宿営地に着したのであった。
 ところが、この地に着いて、偶然《ふと》私は憶出《おもいだ》したのは、この米沢の近在の某寺院には、自分の母方の大伯父に当る、某《なにがし》といえる老僧が居《お》るという事であった。幸《さいわ
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