の名を記念してこの土地を浜田山といふやうになつたといふ話であつた。浜田家はそれほど大へんな豪家ではなく、浜田山だけでは八町八反の地主であつたが、ほかが小さい農家ばかりであつたから、この辺の庄屋の家であつたのだらう。
浜田家のお稲荷さんはこの辺全部の鎮守様みたいなもので、そのお稲荷さんに遠慮して浜田山には一つのお寺もなく神様もないのだと聞いてゐるが、本当かどうか知らない。しかしいちばん近い寺は西永福と永福町とにある。昭和二十年この浜田家の屋敷跡の松山を軍の方で買ひ上げて油の貯蔵所を造り、南と北の入口に番兵が立つやうになつてから、私たちはもう自由にこの松山の草みちを通行ができなくなつた。永福町が焼けたその同じ夜にこの松山にも火が堕ちて油の倉庫が焼けた。黒い煙がまる二日立ちつづけてゐた。その黒けむりを見て「まだ焼けてゐる、まだ焼けてゐる。ずゐぶんたくさん油があつたのだ!」と私たちは感歎したり驚いたりしてゐると、三日経つて煙が消えた。松の大樹が何十本か焼けてしまつた。
その時から五六年も経つて、世の中はとにかく平和になつてゐるが、生活は苦しく忙しく浜田山のいはれなぞ考へることもなく暮してゐ
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