みちが遠いからと断つた。茶店の前をもう一度とほり過ぎて坂を下りかける辺に栗が沢山おちてゐた。あのをばさんもこの辺で拾つたのだらう。その坂道をまがる時、義経の高館の城跡が遠い田の中に見えた。永い年月をすぎては小さいつまらない丘である。その丘の向うの方にも大きな河が流れて、その河と、河の流れを隠す萱山のつながりとを見てゐるとき、荒涼たる自然にもうすつかり満腹したやうに感じた。さようならである。私たちは案内者にもここでお礼をして別れた。
「それではお先きに降《お》りまして、バスを止めて待たせて置きますから」と彼は大いにサービスしてくれた。

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たまきはる生命たのしみみちのくの鳴子《なるご》の山のもみぢ見むとす
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 昭和十七年の十月、こんな歌を詠んで私は紅葉見物のつもりで出かけて行つた。たつた一年の月日に世の中はぐんぐん苦しくなつて来たが、それでもまだ私は紅葉を考へる心のゆとりを持つてゐた。仙台の駅は前の年よりもずつと電気が暗いやうだつた。
 仔猫のおタマさんはかなり育つてさつそうたる若猫になつて、大きなリボンの頸輪をして私を迎へてくれた。
 一日やすんでから私たちはお弁当を持つて仙山線に乗つて出かけた。「山寺」の山のもみぢが朝日に美しい色を見せて、何となく中国《もろこし》といふ感じがするのを汽車の窓から見上げて、私にはとても上がれさうもないと思ひながら通りすぎた。山形に出るまでに私たちはおひるの食事をすました。窓にすぐ近いもみぢの山々を見ながら誰も乗客のない車の中で食事することは愉しかつた。山のすそにほそい川が流れてこれが海に流れてゆくまでには大きな名取川になるのだと教へられた。のりかへの千歳《ちとせ》駅で四十分ばかり時間があるので構外に出てみると、駅のすぐ側の茶店で食事をする人たちもゐた。どんぶりの御飯に煮魚。その大きなきり身の魚は幾度も煮しめて佃煮のやうにまつ黒くなつてゐた、それが東北の田舎らしい感じを見せてたのしかつた。私たちは大きな梨を買つた。今までにまだ見たことのないほど大きい、越後の大きな梨よりももつと大きかつた。茶店のそばの小川で漬菜を洗つてゐる主婦がゐたが、東京で四月ごろ採れるタカナに似て、たけの高い菜つぱで、これは冬菜といはれてゐるさうである。この冬じう彼等はこの漬物を朝も夕もたべるだらう。
 ほかに誰もゐない私たちだけの車のやうな気もちで庄内平野を通り過ぎて行く。山々はずつと遠いから赤くも青くも見えなかつた。天童といふ駅に来た時、濃い桃いろのスウエターを着て金茶いろのズボンをはいた娘さんが一人、ちやうど発車しようとするバスに乗つた、これはどこかの温泉行のバスらしかつた。東京には見られないやうな健康さうな裕福さうな若い娘であつた。ここの天童といふ町の名は日本には珍らしい字で、何か聖母様に関係があるのかとも思つたが、Fに何もきかずにうとうとして新庄まで行つた。
 鳥海山の頂上に急に黒雲がかかつたと思ふと、新庄に着いたとき雨が降つてゐた。駅のすぐそばの下駄屋にはいつて小学生の使ひさうな子供の番傘を買つて二人でさして歩く。Fはこの前に新庄の町で買つた牛肉がおいしかつたと言つて、けふも牛肉を買つた。町にはいま兵隊さんたちが泊つてゐるので、いろいろな食料が手に入るらしかつたが、お菓子やまんじうなぞは売りきれてしまつた。
 新庄で乗りかへて小牛田の方に出る線に乗つた。この沿線の紅葉はすこし盛りをすぎたと思はれたが、山々は荒く重たく自然の強さを見せて私を旅びとらしいたよりなさにした。むかし安倍の一族が闘つたのはこの辺らしいのですとFが言つたが、けふは少ししぐれて、無人の野と山とに紅葉が散るばかり、「みちのく」は広すぎて東京人をみじめに感じさせた。途中で日がくれて鳴子《なるご》のもみぢも見られなかつたが、その代り紅葉見物の連中が四五十人ほど老若男女入り交つてみんなが紅葉の枝をかついで汽車に乗りこんで来た。酔つてゐる人が多く、歌つたりどなつたりして又すぐ下りて行つた。どこか近い温泉に行つて騒ぐためらしい。
 それから二三日して、こんどは少し遠く、石の巻まで行くことにした。電車の窓から松島の海つづきの青い波をながめて昨年の事を思ひ出した。「手樽」といふ小さい駅を過ぎて、駅の人が「テダル」と呼んでるのを私は手垂《てだる》といふやうに考へちがへて面白い名だと思つたが、手を垂れるのでなく手の樽であつた。どちらにしても好い名である。蛇田といふところはむかし戎夷《えみし》が叛いてこの上地に攻め入つた時、下野の勇将|田道《たぢ》が朝廷の命を受けて闘つたが、敵は強く田道《たぢ》は戦死してしまつた。それをこの土地に葬つた。あとでもう一度|戎夷《えみし》の兵が石の巻に攻め入つて田道《たぢ》の墓を掘りかへした時に、墓の中から大蛇がいくつもいくつも出て来て敵兵を無数に咬み殺したといふ伝説があつて、この辺が蛇田と呼ばれるやうになつた。ただの田圃とすこしも変りはない、その蛇田の向うの松原に田道《たぢ》の石碑が立つてゐる。電車の中から礼をした。
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をはり悲しく田道《たぢ》将軍が眠りいます蛇田よけふは秋の日のなか
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 石の巻の町に近くなつてくると、その辺の道や畑いちめんに魚が乾してあり、肥料にするのださうで、奇妙なにほひが潮風と一しよに流れて空にまでにほつてゆきさうである。漁師の家はみんな裕福さうで、明るく静かで、庭の石垣の下まで海が来てゐる。せまい庭に樹はなく、大ていの家に白い菊と黄いろい菊がいつぱい咲いてゐた。これはみんな食料だといふ話。電車にはかなりたくさん乗つてゐたのだけれど、駅で下りるとその人たちは二人づれ三人づれ何処ともなく散つて、私たちはたつた二人だけで歩いて行つた。塩釜の町ほどの賑やかさはなく、もつと古代のにほひがするやうに感じた。この町の大通りである賑やかな一本みちを行つて又帰つて来るとき、Fは持つて来た小さいお重《じう》に鯛のきりみや牡蠣を買つた。なにしろ魚の町であるから私が大森までみやげに持つて帰れさうな物は何も見えなかつた。
 駅に近い方に戻つて来て日和山《ひよりやま》に行つてみた。だらだら坂ののぼり口に桜の樹が沢山かたまつて立ち、わくらはの落葉がすこしづつ散つてゐる時であつた。私たちより少し先きに五六人の青年が、これも見物人らしく歩いて行き、明るい広い感じの丘であつた。いちばん高い所には鹿島御子神社がまつられてあつた。見わたす太平洋の波はまぶしく光り、はるかな沖の方で空の光と一つに溶けて無限に遠い海のあなたを思はせた。石の巻の港、むかしの伊峙《いし》の水門《みなと》である。
「日和山《ひよりやま》のうら山に、小野の小町のお墓があるつて、ほんとでせうか?」と訊いたが、Fも知らず、茶店の人も知らなかつた。「小町は、たぶんこの辺までは来ないのでせう。もし本当にみちのくまで帰つて来ても、もつと向うの方でせうね」と彼女は言つたが、あの辺にしろ、この辺にしろ、みちのくは限りなくひろい山野である。小町はふるさとの土を踏むため果してどの辺まで歩いて来たのだらうか? 何か心のゆかりを求めての旅であつたと思はれる。この日めづらしく私は歌を詠んだ。
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入海《いりうみ》の浅瀬の水草《みくさ》日にねむる手樽《てだる》の駅をわが過ぎにける
みちのくの海辺の家にみだれ咲く黄菊しらぎく食《を》すためにありとも
真昼間《まひるま》の空気騒がして鴎とぶ船つくり場の黒き屋根のへ
昼食《ひるげ》せむ家たづねつつ鴎飛ぶ裏町をゆき橋わたり行き
水に立つ石垣ふるく黒ずみて秋日のなかに白きかもめら
海かぜも日もまともなる丘の上に大洋《おほうみ》に向く神のみやしろ
石の巻|日和山《ひよりやま》のうへにわが見たる海とそらとの異《こと》なる日光《ひかり》
青海の波にひとすぢかげりあり北上川の水流れ入る
大洋《おほうみ》は秋日まぶしくいにしへの伊峙《いし》の水門《みなと》を船出づる今日も
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 仙台の動物園はかなり大きいもので、ずつと以前浅草の花屋敷が持つてゐたのを仙台市で買つたのだといふことである。Fの家の二階から見ると、大学のグラウンドの向うの右手の丘のすそにその大きな白い門が見え、夜は夜じう一つの電燈が光つて、向うの丘の観音様の灯よりも近いだけ大きく光る。その動物園にあまり興味は持たなかつたがCと二人で行つて見た。お役所といひたいやうな広いいかめしいお庭で、門をはいつて一ばん初めのところに猿たちがゐる、複数も複数、たいへんな複数で、とてもおびただしい猿たちがひろい金網の区ぎりの中でのんきににんじんを食べ、蚤の取りつこをしたり、林檎の皮をむいたりしてゐる。「猿が島」と呼ばれてゐたさうである。上野にゐる生きものたちと同じやうにこの庭にも沢山の住み手がゐて、象だけはゐないが、ほかの動物仲間は大ていゐた。虎は二ひき、虎らしく動いてゐた。少し離れた大きな檻にライオンがゐた。広瀬川がざつざつと流れるその音にいちばん近い場所で彼は秋日の中にひるねしてゐた。何もかもつまらなさうな、あきらめてゐるやうな姿でもあつた。熊もゐた。熊もつまらなさうだが、それでも何か期待《あて》があるやうに歩いて人間をながめる。猿ではじまり、いちばんおつめのところがペルシヤ猫の仲間である。元来私は猫が好きなのだが、ペルシヤ猫は何か暗いものを持つてゐるやうで親しめない、その立派な長い毛、短かい脚、すばらしくふさふさした長いしつぽ、野の物の荒い表情を持つ眼の光、……私には、ペルシヤ猫は人間とはまるで別な世界の独立したけもので、少し怖いのである。けものといふ字が本当に彼等を形容する。じつに見事な猫たちで、二匹は何か私の方を気がかりさうに見て、のそのそ歩き廻り、こちらを時々見てゐる。二ひきはぐうぐう寝てゐる、一匹はたいそう不機嫌で、丸くなつて網の中にうづくまつてゐる。
「お猫さんたちや、この広いお庭の中で、あなたたちと熊さんがいちばん好きです」とペルシヤ猫に言つた。
 帰らうとしてまた出口の猿のところまで来た。ほんとうに群がりうごく猿の島である。やや疲れたらしく夕日にうづくまつてゐるものが多い。彼等のいしきがどれもどれも赤い。向ふの山のもみぢよりもずつと赤く、もつと現実味の赤である、それをみんながこちらに向けてゐる、いきにも帰りにもにんじんを買つてくれないなんて、ぼんやりなお客だね。そんな奴、臀を向けてやれと一ぴきの猿が言ひ出して猿から猿にさう言つたらしく、猿が島じうの猿がことごとく私たちに臀を向けてゐた。人間はまことにぼんやりの動物であるが、全体のストには気がついてすつかり照れて帰つて来た。

 昭和十八年の春、四月の中ごろ私はまた仙台に行つた。黒磯あたりの桜が満開で、東京では見られない濃艶ないろを見せてゐた。神国とかみそぎとか訓練といふような言葉ばかし東京で聞いてゐる身には、むかしの昔から日本に咲いたであらう花々をながめ、遠い北の空にあたらしい雪を頂いた高い山々の姿なぞ見てゐるとき、自分がむかしの世に生きてゐるのか、現代を通り過ぎた明日の世界にふみ入つてゐるのか、ぼんやりした気もちで四方の景色を見て過ぎた。平野の人の住む村ざとには桃やこぶしが紅く白く咲きあふれて、都から出て来たものに殊に季節のにほひを深く感じさせた。
 仙台の家では白猫がびつくりするほど大きくなつて、いろいろな芸をするやうになつてゐた。私のにほひを嗅いで、一年間わかれてゐた友達をおもひ出したやうである。
 塩釜様のお宮の桜が今ちやうど盛りだといふことだつたが、まづそれより一歩近いところにと言つて、翌日は躑躅が丘に行つてみた。電車を下りてからすこし昇つて行くのである、仙台の何師団かが占領して、広い丘の半分以上は兵隊さんがあちらこちらに立つてゐたが、それにもかかはらず丘のしだれ桜は美しかつた。今までどこかの庭にしだれ桜が稀に一本ぐらゐ咲いてゐるのを見ただけの眼には、この公園全部に咲きみだれてゐる花を見ることは珍らしか
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