ぐ売れてたつた一足残つたのだと店で言つてゐた。この雑貨店は古着、洋服、シヤツ、シヤベル、靴、婦人用の日傘まで並んでゐた。その隣りがこの町いちばんの菓子屋なのだが、もう夜だから干菓子しかなかつた。
 コンクリの段々を上がつて高いホームに電車を待つてゐると、まぶしく明るい灯の港である。むかし在原の業平が河原の左大臣の家を訪ねると「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに」の歌を詠んだこの左大臣は塩釜の土地の景色を庭に作つてゐた。業平はその庭を見て「塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣りする舟はここに寄らなむ」と一首の歌を詠んで家のあるじに敬意を表したといふ話である。その河原の左大臣|源融《みなもとのとほる》はわかい時分に陸奥の按察使《あぜち》として行かれた土地の中でも、この港の景色を殊に恋しく思ひ出されてその豪しやな河原の院の庭を作つたのであらう。広い池には毎月三十石の潮を難波から汲み運ばせ、魚や貝類を住ませ、塩釜を作つて汐をやかせたといふほどの心の入れ方であつた。その頃のこの港はどんなに明るくどんなに寂しく、漁師たちの小舟がのどかに出入りしてゐたことであらう。塩をやく煙もうすく見えてゐたらう。さう思つ
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