い私たちだけの車のやうな気もちで庄内平野を通り過ぎて行く。山々はずつと遠いから赤くも青くも見えなかつた。天童といふ駅に来た時、濃い桃いろのスウエターを着て金茶いろのズボンをはいた娘さんが一人、ちやうど発車しようとするバスに乗つた、これはどこかの温泉行のバスらしかつた。東京には見られないやうな健康さうな裕福さうな若い娘であつた。ここの天童といふ町の名は日本には珍らしい字で、何か聖母様に関係があるのかとも思つたが、Fに何もきかずにうとうとして新庄まで行つた。
鳥海山の頂上に急に黒雲がかかつたと思ふと、新庄に着いたとき雨が降つてゐた。駅のすぐそばの下駄屋にはいつて小学生の使ひさうな子供の番傘を買つて二人でさして歩く。Fはこの前に新庄の町で買つた牛肉がおいしかつたと言つて、けふも牛肉を買つた。町にはいま兵隊さんたちが泊つてゐるので、いろいろな食料が手に入るらしかつたが、お菓子やまんじうなぞは売りきれてしまつた。
新庄で乗りかへて小牛田の方に出る線に乗つた。この沿線の紅葉はすこし盛りをすぎたと思はれたが、山々は荒く重たく自然の強さを見せて私を旅びとらしいたよりなさにした。むかし安倍の一族が闘つたのはこの辺らしいのですとFが言つたが、けふは少ししぐれて、無人の野と山とに紅葉が散るばかり、「みちのく」は広すぎて東京人をみじめに感じさせた。途中で日がくれて鳴子《なるご》のもみぢも見られなかつたが、その代り紅葉見物の連中が四五十人ほど老若男女入り交つてみんなが紅葉の枝をかついで汽車に乗りこんで来た。酔つてゐる人が多く、歌つたりどなつたりして又すぐ下りて行つた。どこか近い温泉に行つて騒ぐためらしい。
それから二三日して、こんどは少し遠く、石の巻まで行くことにした。電車の窓から松島の海つづきの青い波をながめて昨年の事を思ひ出した。「手樽」といふ小さい駅を過ぎて、駅の人が「テダル」と呼んでるのを私は手垂《てだる》といふやうに考へちがへて面白い名だと思つたが、手を垂れるのでなく手の樽であつた。どちらにしても好い名である。蛇田といふところはむかし戎夷《えみし》が叛いてこの上地に攻め入つた時、下野の勇将|田道《たぢ》が朝廷の命を受けて闘つたが、敵は強く田道《たぢ》は戦死してしまつた。それをこの土地に葬つた。あとでもう一度|戎夷《えみし》の兵が石の巻に攻め入つて田道《たぢ》の墓を掘りかへした時に、墓の中から大蛇がいくつもいくつも出て来て敵兵を無数に咬み殺したといふ伝説があつて、この辺が蛇田と呼ばれるやうになつた。ただの田圃とすこしも変りはない、その蛇田の向うの松原に田道《たぢ》の石碑が立つてゐる。電車の中から礼をした。
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をはり悲しく田道《たぢ》将軍が眠りいます蛇田よけふは秋の日のなか
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石の巻の町に近くなつてくると、その辺の道や畑いちめんに魚が乾してあり、肥料にするのださうで、奇妙なにほひが潮風と一しよに流れて空にまでにほつてゆきさうである。漁師の家はみんな裕福さうで、明るく静かで、庭の石垣の下まで海が来てゐる。せまい庭に樹はなく、大ていの家に白い菊と黄いろい菊がいつぱい咲いてゐた。これはみんな食料だといふ話。電車にはかなりたくさん乗つてゐたのだけれど、駅で下りるとその人たちは二人づれ三人づれ何処ともなく散つて、私たちはたつた二人だけで歩いて行つた。塩釜の町ほどの賑やかさはなく、もつと古代のにほひがするやうに感じた。この町の大通りである賑やかな一本みちを行つて又帰つて来るとき、Fは持つて来た小さいお重《じう》に鯛のきりみや牡蠣を買つた。なにしろ魚の町であるから私が大森までみやげに持つて帰れさうな物は何も見えなかつた。
駅に近い方に戻つて来て日和山《ひよりやま》に行つてみた。だらだら坂ののぼり口に桜の樹が沢山かたまつて立ち、わくらはの落葉がすこしづつ散つてゐる時であつた。私たちより少し先きに五六人の青年が、これも見物人らしく歩いて行き、明るい広い感じの丘であつた。いちばん高い所には鹿島御子神社がまつられてあつた。見わたす太平洋の波はまぶしく光り、はるかな沖の方で空の光と一つに溶けて無限に遠い海のあなたを思はせた。石の巻の港、むかしの伊峙《いし》の水門《みなと》である。
「日和山《ひよりやま》のうら山に、小野の小町のお墓があるつて、ほんとでせうか?」と訊いたが、Fも知らず、茶店の人も知らなかつた。「小町は、たぶんこの辺までは来ないのでせう。もし本当にみちのくまで帰つて来ても、もつと向うの方でせうね」と彼女は言つたが、あの辺にしろ、この辺にしろ、みちのくは限りなくひろい山野である。小町はふるさとの土を踏むため果してどの辺まで歩いて来たのだらうか? 何か心のゆかりを求めての旅であつたと思はれる。この日めづらし
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