池を掘る
片山廣子
その頃、防空壕は各戸に一つか二つ位づつ掘られてゐたが、防火貯水池もだんだん必要となつて来たので、至急に用意をするやうその筋の命令が出た。山王一丁目二丁目新井宿一丁目から七丁目まで一町ごとに一つの貯水池はぜひ必要で、神社の境内か町内の空地にそれぞれ掘る支度をしたのだが、さて新井宿三丁目は郵便局や銀行もあり一ばん賑やかな通りで空地は一つもなかつた。神社は熊野神社を祭つてあるが、これは高い石段をのぼつて松や杉の茂つた上の方まで行くのだから、むろん貯水池なんぞ掘れない。町会の人たちは大いに考へて、一ばん住む人のすくない一ばん庭のひろい一軒の住宅に目ぼしをつけたのが、不幸なことにそこは私の家であつた。
町会と区役所の人たちが頼みに来るまで私はそんな事を夢にも考へなかつた。個人の家の庭に町会の貯水池が掘られるといふことは、誰だつて考へない事なのだけれど、ぎりぎりに押しせまつた必要と、もう一つは、町会の人みんながひどくのぼせて愛国の気持になつてゐたから、何の働きもできない私のやうな女までも、何か好い仕事をさせてやらうといふ真面目な気持も交つてゐたらしく、最後に町会長が来て懇願した。お国のために、こちらのお庭に貯水池を掘らなければ、三丁目には他に適当な場所が一つもないと言つて、それを私が断れば、お国が困るのだといふやうな意味の話をした。では、私の家のほかにも個人の庭で貯水池をお掘りになつたところがございますかと訊くと「あります。山王二丁目のK伯爵邸の、御門から玄関にゆく中途のところに。もうこれは出来ました。今のところではK伯爵邸のほかは神社の空地ばかりです。これは一つ御承知を願つて、その代り私どものできる事で御便宜を計らうと思ひますが」ともう私が承知したやうに話しかけた。今の斜陽階級といふやうなさびしい言葉はまだ生れなかつたその頃の伯爵邸は町のほこりであつたから、町会長はたとへ貯水池一つでも私の家がその伯爵家や神社と軒並にとり扱かはれることを私のためにも非常な光栄だと思ひ込んでくれたのだつた。「平和になつた時に、その穴はどうなるのでせうか?」と、あはれな私は敗戦国にならないで日本に平和が来る日もあると思つて、訊いてみた。「それはむろん区役所の方で人夫をよこして元どほりに埋めるさうですから、後日の事は御心配なく」と言つた。かういふ話を私ひとりでがんばつて受けつけないでゐれば、一億一心といふマトーにはづれるのだから、町会から少しぐらゐ意地わるの事をされても仕方がなかつた、もうすぐそこに一つ別の問題が起りかけてゐた。それはだんだん家々が焼けて住宅がなくなつて来れば、焼け出された人たちをどこの空間にでも収容することになつてゐて、一畳半の場所に一人づつ、つまり十畳には七人位、八畳には六人、四畳半には三人入れるきまりださうで、私の家もその時にお役に立たせられるかもしれないと、一週間も前から聞かされてゐた。かういふ時に庭の方を役立てて、家のなかには触れずに置いて貰ふ方がいいだらうとも言はれてゐた。火事で焼けて家も家財も一瞬に失くしてしまつた人たちの苦しさはよく分つてゐるつもりでも、今まで若い女中とたつた二人で静かすぎるやうに暮してゐた家に急に二十人も三十人もの人が来て、あわただしい共同の生活に変ることは、私にとつては怖いほどの一大事と思はれた。国も人もほろびつつあるその国難もまだほんとうには認識できないでゐる時の私だから、何事も一寸のばしにすることにして、それでは、庭を使つていただいて、家の方の徴用はゆるして頂けるのでせうねと念を押して、貯水池はついに引受けてしまつた。庭のまん中よりやや西に、いちばん平らな好い場所に十二坪の長方形の池がコンクリで造られるのだつた。
コンクリ屋のやうな専門家が来る前に先づそれだけの穴を掘らなければならない。三丁目町会の隣組の人たちが各家庭から一人づつ出て穴掘りに奉仕することになつて、男の人たちは昼間の勤めがあるから全部が主婦とわかい娘さんたちだつた。二月の節分が過ぎて間もない頃で朝の霜はひどかつたが、午前九時に始まり午後五時で終るのだつた。私の方の隣組は、穴掘りの仕事は人手も多いから、みんながお茶の係りになつて、そつちこつちの樹の下に七輪を据えて一日じう驚くほど沢山の湯をわかした。初めの日は三百八十人位の人数で、次の日は人数が少し減り、三日目は午後二時ごろで終了し、延人数九百何十人といふことだつた。女ばかりの奉仕隊がみんな黒の防空服で大きなシヤベルを持ち、土を掘つたり運んだりする姿はまことに勇ましく、映画にもこんな光景はないだらうと思つて私はそつと障子の中からながめてゐた。(御主人は今日は出ないで下さいと言はれて、私は正直に家の中に隠れるやうにしてゐた。)
同じ隣組の植木屋の親方がその朝はやく相
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