談に来て、お庭のまん中にむやみに穴を掘られては困りますから、向うの植込の樹のしげみを「山」と見たてて「山水」の型に池を掘りませうと言つてくれた。植木屋の親方は一日中指揮者となつて程よく土を運ばせ丘の姿がだんだん出来上がつてゆくのを「専門家だなあ」と私は感心して見てゐたが、ほんとうに、それは「山水」と見えた。一丈の深さの池は第一日で三分の二ぐらゐ掘り下げられた。
 初めの日、三時のお茶時間すこし前だつた、都の事務官なにがしがこのたびの事でお礼の御挨拶に伺ひましたと、区役所の人をお供にして見えた。椽側に出て挨拶すると、事務官は名刺を出して公式のお辞儀をした。風采のすぐれた人だつた。「みんなが非常に感謝してをります。あとあとは決して御迷惑をかけない積りでをりますが、御用の時はどうぞ御遠慮なく区役所の方におつしやつて、また私も、伺ふことにいたします」と言つてもう一度お辞儀をした。
「どうぞお上がり下すつて、お茶を召上がつて……」と私は言つたけれど、事務官は庭でスピーチをしなければならないのだつた。植木屋の設計した「山水」の丘の上に立つて彼は奉仕隊の婦人たちにスピーチをした。ねぎらつて、はげまして、感謝する言葉で、大勢の女ばかりの黒衣の労働者の中に彼はスマートな姿で立つてゐた。
 掘るのは三日で終つたが、コンクリの仕事が長くかかり、それがすつかり出来ると、消防署の自動車が水を運びお池が出来あがつた。都と区役所の人と町会長が検分に来て椽側でお茶を飲んだ。「お庭のながめが一しほで、じつに気持が好い、夏は緋鯉をお放しになるとよいです」と彼等は平和な話をして帰つて行つた。門内の樹のあひだを自動車が出入りすることはむづかしいので、西側の道路に面した生垣を二間ほどきり取つて、ふだんは人目につかないやうに塞いでおくことにした。
 この池をほんとうに使用する時が来ない内に、私は急に大森の土地を離れて杉並区の方に移つたから、その後のことは知らない。翌年の春、この辺の土地全体が大幅に池上の丘の下まで強制疎開になつたので、たぶんこの池は一度も使はれずに終つたのだらうと思ふ。偶然の事ながら、三月末に伜が急に亡くなつたのと新井宿の家の毀されるのと殆ど同時であつた。馬込の彼の家に泊つてゐて、二七日が過ぎてから私は毀された家を見に行つた。庭には瓦の山が積まれてその辺いちめんに土ほこりが黄いろい靄のやうに流れ、二三人の人夫が瓦の山の上をみしみし歩いて行つた。私もその瓦の上を歩いてゐるとあのお池の水が夕日に光つて見えた。近所の子供の遊びか、小さい筏が流されてそばの楓の樹に細引でつないであつた。そこだけは古風な眺めで、松に交る樹々が少しづつ芽ぶき赤らんでゐる姿は私のためにふるさとの感じもした。その時、樹の中で鶯が鳴いた。



底本:「燈火節」月曜社
   2004(平成16)年11月30日第1刷発行
底本の親本:「燈火節」暮しの手帖社
   1953(昭和28)年6月
入力:竹内美佐子
校正:林 幸雄
2009年8月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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