大へび小へび
片山廣子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)劫《ごふ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)勇将|田道《たぢ》
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 日本では蛇の昔ばなしがたくさんあるが、アイルランドの伝説にも蛇が多いやうである。同じやうに島国のせゐかもしれない。初めに私が読んだのはごく太古のこと、北方の山の湖水に劫《ごふ》を経た大蛇が、将来えらい人がこの国に来て蛇族全部を退治してしまふといふ予言をきいたので、さういふ災禍の来ない前に海に逃げてしまはうと思つて、一生けんめいに湖水から逃げ路を作り始める。行くみちみちで沿岸の家畜どもを喰ひ荒し、時々休息し、さうして又水路を掘る。いさましい人間どもが大蛇を攻撃してくるが、いつも人間の方が負けてしまふ。しかし大蛇も負傷したり殺されかかつたりして、永い月日を経て漸く海まで水路を通《とほ》す。大蛇の作つた路がシヤノン河になつたといふ話である。
 そのえらい人といふのは聖《セント》パトリツクのことださうで、さて聖《セント》パトリツクの伝には、この聖者はローマの奴隷として少年の日を過したアイルランドを愛する心深く、自由の身となつて後ふたたびアイルランドに渡つてキリストの道を伝へたといふ事である。キリスト紀元五世紀ごろのこと、波にかこまれた島国は森と山と野はらと沼ばかりで住む人はすくなく、至るところに蛇がのさばつて、大きい蛇小さい蛇、中蛇、おろちの類までこの国を住家にしてゐた。聖者は一人の弟子と共にいろいろな困難と戦ひながら休むひまなく西に東に伝道してゐる時のこと、或る山かげのせまい道を通りかかると、道に蛇が寝てゐたが、めづらしくもないので弟子は跨いで通つた。蛇は忽ちをどり上がつて弟子を喰ひ殺してしまつた。聖者は、聖者といへども人間だから、この時までうつかり歩いてゐたのだつたが、大事な弟子を眼前に喰はれて、大いに怒つて「けしからん蛇のやつ! 退れ、退れ、汝のともがら、永久に消滅せよ」と叱りつけた。その殺人蛇はその時いそいでするすると消えてしまつたが、あらゆる蛇どもがこの時をきつかけに段々どこかに移転して行つたらしく、アイルランドはいつの間にか蛇の島ではなくなつた。むろん聖者の伝道のおかげでもあつたらう。(キリスト教と蛇とは仲がよくない)ドラゴンを踏まへてゐるのはイギリスの聖《セント》ジヨージで、アイルランドの聖《セント》パトリツクでないことは門《かど》ちがひみたいだけれど、大むかしはどこの国でも蛇が人間の大敵であつたと見える。
 後世になつてアイルランドの伝説には蛇でなく妖精《フエヤリイ》が出てくるやうになり、お話はだんだん殺伐でなくなつた。人間も殖えて強くなつたのであらう。
 わが国の蛇の話も、はじめの方のは大きい。素戔嗚の尊が稲田姫を八岐《やまた》の大蛇《おろち》から救つた話はどこの国にもありさうな伝説である。その大蛇は頭と尾がおのおの八つあり、背中には松や柏が生へて体ぜんたいの長さが八丘《やおか》八谷《やたに》に這ひ渡つたといふから、相当の長さであつたと思はれる。ほんとうにそんな大きい物ならば稲田姫のおとうさんの家なぞにはいり込むことは出来なかつたらう、それが伝説なのである。
 崇神天皇の御代、倭迹迹姫《やまととどひめ》の夫となつた大物主の神は或るとき姫の櫛ばこの中に隠れた。あけがたに姫が櫛ばこを開けてみると、にしき色に光る小さい小さい蛇がゐたといふ、これはすぐれて聡明な人間のむすめと神とのあひだの悲劇で、日本書紀も姫に同情してゐるやうに読まれる。
 仁徳天皇の御代、北方の蝦夷《えみし》らが叛いた時、上野の勇将|田道《たぢ》を大将として征伐させたが、その時の蝦夷《えみし》はひどく強く、田道《たぢ》は石の巻の港で戦死してしまつた。田道《たぢ》の家来が主人の手纏を取つて田道《たぢ》の妻に持つてゆくと、妻はその形見を胸に抱いて自殺し、この夫妻の死はひろく世間から惜しまれ手厚く葬られた。その後しばらく経つてまた蝦夷《えみし》が攻め込んで来て田道《たぢ》の墓を掘りかへした。すると墓から大蛇が出て来て多勢の敵をくひ殺した。喰はれなかつた奴らもみんな蛇の毒気にあたつて死んだ。石の巻の町に入るすぐ手前の畑に今でも「蛇田」といふ名所がある。「……五十八年の夏|五月《さつき》、荒陵《あらはか》の松林《まつばやし》の南の道にあたりて、忽に二本《ふたもと》の櫪木《くぬぎ》生ひ、路をはさみて末合ひたりき」と本に書いてある。それは田道《たぢ》が死んでから三年目の事であつたが、昭和の御代の或る年、私は仙台にゐた娘を訪ねて、松島から石の巻に遊びに行つた時、「蛇田」の中ほどに今でも一むらの松林があつて、田道《たぢ》の墓がそこにあるのを見た。これは大きい悪い蛇の話。
 人間がだんだん殖えて世
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