の中が賑やかになると、歴史のおもてに蛇はでなくなつたやうだ。藤原の道長が栄華の絶頂にゐた時分のこと、大和の国から御機嫌伺ひとしてみごとな瓜をささげて来た。夏のゆふ方で、道長は「ほう、うまさうな瓜だな!」とその進物の籠をながめてゐた。そのとき御前に安倍晴明と源頼光が出仕してゐたが、安倍晴明は眉をひそめて「殿、ただいまこのお座敷には妖気が満ちてをります。この籠の瓜が怪しく思はれます」と眼に見るやうに言つた。すると頼光《らいこう》がいきなり刀を抜いてその瓜を真二つに切つた。瓜の中に小さい蛇が輪を巻いてかくれてゐた。これは殿を恨むものの思ひが蛇となつてその瓜にこもつてゐたのだといふ話であるけれど、加工品の中に蛇を隠し込むのとは違つて、瓜の中に初めから蛇の卵がひそんでゐて瓜と一しよに育つたと考へてみれば、それはやつぱり陰陽師安倍晴明が言つたとほり妖しい瓜であつたのだらう。これはごく小さい蛇。
まだわかい北條時政が江の島の岩屋に参籠した満願の夜に岩屋のぬしの蛇が現はれた。その時蛇体ではなく美しい女性の姿にみえた蛇は人間の言葉で時政に未来の事を話した。まぼろしが覚めた時、その女性が立つてゐた辺に三片のうろこが落ちて光つてゐたといふ話で、これは少しも怖くはなく、頼もしい美しい、古い伝説風でもある。
わが国の田舎には蛇のたたりの物すごい話が沢山あつて、それはみんな邪悪な気味のわるいものばかりで、歴史に出た表向きの蛇たちのさつそうとした行動とは大きなへだたりがある。古いむかしの蛇たちは同じ蛇族の中の英雄であつたと思はれる。
もつと世界的な話ではイヴが見た蛇。神はイデンの園のどの樹の実をたべてもよろしいが、たつた一本だけ、その実をたべるべからずとおつしやつた。アダムとイヴの二人は正直にその命令を守つてゐたとき、蛇が出て来てイヴを誘惑してその禁断の樹の実を食べさせたのである。聖書にはその物語がこまごま述べてあるけれど、蛇については「神の造りたまひし野の生物《いきもの》の中に蛇もつとも狡猾《さか》し」とあるだけで、蛇の大きさは何とも書いてない。常識で考へて素戔嗚の尊の退治した大蛇のやうなものではなく、草原の上にすべり出て女と話をするのにちやうどつり合ひのとれた小蛇のやや大きいのであつたかと思はれる。しかし大小はともあれ、どんな大むかしでも、蛇は今日と同じくによろによろしてゐたに違ひない。女が気持よくそんな物と話をしたといふのが不思議である。さうするとイデンの蛇は無形の物で、イヴの頭の中にだけ見えたのかもしれない。イヴはその頭の中の蛇といろんな問答をして、樹の実を食べる決心をしたと考へてみれば、かなり素ばらしい生意気な女であつたやうで、それがわれわれ女性みんなの先祖であつた。
遠い国の蛇や、古い古い蛇はさておき、私の家の蛇を思ひ出すと、今はもうかなりの過去になる。大森の家はずつと以前は畑であつて、十軒ぐらゐの農家がその辺に家を構へた、そのうちの主人がよその土地に移つた一軒の家を改築して私たちの家としたのである。相当のひろさの地所で、道路に添うた三方の境には古い欅と榛の樹が農家らしく立つてゐた。十年ぐらゐ経つて主人が亡くなり、私と二人の子供だけ住むのには広すぎる家であつたが、引越すことのきらひな私は何時までもそこにゐた。その時分のこと、大きな蛇が塀ぎはの欅から欅に伝わつて歩くのを往来の人たちがよく見るやうになつた。あれは片山さんとこのヌシらしい、そつとして置けと近所の人たちは子供が石を投げるのを叱つて止めた。門側の垣根で、住居にはうしろだつたから私たちはその蛇を見なかつた。しかし或時それを見た、一本の樹から隣りの樹に這ひつたはる姿はひどく長いものだつた。一ばん大きな欅にうろがあつて、その中に住んでゐるのだらうといふことだつたが、植木屋が刈込みの時しらべて見ても何もゐないと言つた。あの蛇はもう死んだのだらうと私たちが思つてゐると、その後一二年して門のそばの小さい冬青の木に一ぴきの小蛇がぶらさがつてゐた。これはたぶんヌシの子よと、みんなできめて、そうつと触らずに置いた。時をり小蛇はその辺に見えてゐたらしいが、誰も気にもとめず、そんな事はすつかり忘れて静かな月日が過ぎた後、戦争が始まつた。
まだ私は古い家を捨てて疎開しようとも考へてゐない時分、晴れた九月の朝だつた、茶の間と居間との前の芝生に一ぴきの蛇がだらんとのびて寝てゐた。中へびであつた。死んでゐるらしいと、東北の農村そだちの女中は棒をもつて来てそれを引つかけようとした時だつた、蛇はいきなり頭を上げて六尺ばかり跳び上がり、すつと身をうねらしてきらきら光つて芝の上を走りはじめた。すばらしい早さで私たちの眼の前を滑り忽ちのうちに陰の方にかくれて行つた。生きてゐたのね! どうしてこんな明るい芝の上に寝てゐ
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