ランドの聖《セント》パトリツクでないことは門《かど》ちがひみたいだけれど、大むかしはどこの国でも蛇が人間の大敵であつたと見える。
後世になつてアイルランドの伝説には蛇でなく妖精《フエヤリイ》が出てくるやうになり、お話はだんだん殺伐でなくなつた。人間も殖えて強くなつたのであらう。
わが国の蛇の話も、はじめの方のは大きい。素戔嗚の尊が稲田姫を八岐《やまた》の大蛇《おろち》から救つた話はどこの国にもありさうな伝説である。その大蛇は頭と尾がおのおの八つあり、背中には松や柏が生へて体ぜんたいの長さが八丘《やおか》八谷《やたに》に這ひ渡つたといふから、相当の長さであつたと思はれる。ほんとうにそんな大きい物ならば稲田姫のおとうさんの家なぞにはいり込むことは出来なかつたらう、それが伝説なのである。
崇神天皇の御代、倭迹迹姫《やまととどひめ》の夫となつた大物主の神は或るとき姫の櫛ばこの中に隠れた。あけがたに姫が櫛ばこを開けてみると、にしき色に光る小さい小さい蛇がゐたといふ、これはすぐれて聡明な人間のむすめと神とのあひだの悲劇で、日本書紀も姫に同情してゐるやうに読まれる。
仁徳天皇の御代、北方の蝦夷《えみし》らが叛いた時、上野の勇将|田道《たぢ》を大将として征伐させたが、その時の蝦夷《えみし》はひどく強く、田道《たぢ》は石の巻の港で戦死してしまつた。田道《たぢ》の家来が主人の手纏を取つて田道《たぢ》の妻に持つてゆくと、妻はその形見を胸に抱いて自殺し、この夫妻の死はひろく世間から惜しまれ手厚く葬られた。その後しばらく経つてまた蝦夷《えみし》が攻め込んで来て田道《たぢ》の墓を掘りかへした。すると墓から大蛇が出て来て多勢の敵をくひ殺した。喰はれなかつた奴らもみんな蛇の毒気にあたつて死んだ。石の巻の町に入るすぐ手前の畑に今でも「蛇田」といふ名所がある。「……五十八年の夏|五月《さつき》、荒陵《あらはか》の松林《まつばやし》の南の道にあたりて、忽に二本《ふたもと》の櫪木《くぬぎ》生ひ、路をはさみて末合ひたりき」と本に書いてある。それは田道《たぢ》が死んでから三年目の事であつたが、昭和の御代の或る年、私は仙台にゐた娘を訪ねて、松島から石の巻に遊びに行つた時、「蛇田」の中ほどに今でも一むらの松林があつて、田道《たぢ》の墓がそこにあるのを見た。これは大きい悪い蛇の話。
人間がだんだん殖えて世
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