しいなと思つて、私は泊つてゐるあひだ時々倉の前に出かけて行つて食べた。下枝のをとつてみたり、地に落ちてるのを拾つたりした。
私の十代の月日は無事にあつけなく過ぎて、二十代で結婚し、三十代になつたとき、貸家でない自分の家に住めるやうになつた。わかい田舎大工が作つて、ただ家の形だけをそなへた粗末なものであつても、夫も私もその家にはいろいろな注文があつた。夫は屋根のある門が欲しいといひ、私は棗の木を一本ほしいと言つた。川崎の田舎の方から植木屋が探して来てくれて、それを家の東南の方に植ゑつけた。かなり年をくつた木で毎年たくさんの実がついたが、次第に私たちの生活にもゆつくりした時間は持てなくなり、秋になつて棗の実が赤るんでもその実を採る人もなかつた。実はいくつもいくつも土に落ちて、何時の間にか小さい小さい芽生がひよろひよろ生へ出してそこら一ぱい棗の林のやうになつた、と言つてもそれは小びとたちの遊ぶ林みたいで、五六寸か一尺位の木ばかりであつた。その小さい棗の木が育つて三尺にも四尺にもなつた時分、日本は大戦争の混乱に堕ちて、私はもうそのまま家も庭も何も捨てて田舎じみた今の土地に越して来たのである。
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