て舞台のそとの過去と未来をほのぼのにほはせてゐるのだが、舞台の人物が動かずにゐることは誠にはがゆい。アイルランドの劇作家たちがみんなイプセンに学ぶところがあつたやうに、ジヨイスの作にもすこしばかり北欧の影は見えるけれど、その青い光やつよい息吹は感じられず、ただ頼りない物思ひのジエスチユアがあるだけである。恐らく宮本武蔵も剣のほかの道には拙ないものがあつたのであらう。一九一八年に「追放者」が出版されて、一九一四年に出た短篇集「ダブリンの人たち」よりも後のものである。このえらい作家のあまり秀れてゐない作品をみることも興味深いものと思つて私はこの本を読みかへした。それは靄のある大きな海のような気分のものでもある。ただ一人でひそひそと暮らす人間の心はひそひそと曲りくねつてゐるのであらう、私はひそひそとこの本のことを考へて、一人でおもしろがつてゐる。
 いま私が考へるのは、ジヨイスがその沢山の作品をまだ一つも書かず、古詩の訳など試みてゐた時分、シングがまだ一つの戯曲も書かず、アラン群島の一つの島に波をながめて暮してゐた時分、グレゴリイが自分の領内の農民の家々をたづねて古い民謡や英雄の伝説を拾ひあ
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