過去となつたアイルランド文学
片山廣子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)追放者《エキザイル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
−−

 今はもう昔のこと、イエーツは一九二三年にノーベル文学賞をもらつた時の感想を書いてゐる――その時私の心にはここにゐない二人のことが考へられた。遠い故郷にただ一人で寂しく暮らしてゐる老婦人と、わかくて死んだもう一人の友と――。グレゴリイ夫人とシングとはイエーツと共にアイルランドの文芸運動を起した中心の人たちであるから、イエーツはいま自分が貰ふノーベル賞は三人が共に受けるべきものと思つたのであらう。その後グレゴリイ夫人も死に、イエーツも今度の戦争中に亡くなつてアイルランドの文芸復興運動も花が咲いて散るやうに遠い過去のペイジとなつた。あんなにシングのものを愛してゐた私一人の身に考へてみても、アイルランド物をよまないで長い月日が過ぎてゐた。
 すばらしい展覧会を見てその会場を通りぬけたもののやうに長時間その文学の中に浸つてゐた私が、或るときその中を通り抜けたきりもう一度その中にはいらうとしなかつた。人間の心はきりなしに動いてゆくからきつと私は倦きてしまつたのであらう。それに怠けものでもあるから、学者が研究するやうに一つの事に没頭することも出来なくてアイルランド文学に対してはすまないことながらついに私は展覧会を出てゆく人のやうに出たきりになつたのである。
 伝説の英雄たちが戦争したり、聖者が伝道したりした昔の若々しい時代を過ぎて、アイルランドは長いあひだ何の香ばしい事もなく、圧迫の政治下に終始して来たびんぼふな国である。ある時アイルランドがエールといふ名に変つたとしても、すこしの変りばえもなく、こんどの戦争を通りすぎて来たのである。世界の国々の興亡の前には一つの国の詩人や文学者の思ひ出もむろん消えぎえになつて、そのあひだにわが日本は大つなみに国ぜんたいを洗ひ流されてゐたのであつた。生き残つた人たちは荒涼たる空気の中におのおの何かしらの郷愁を感じて、その上に新しいものを作り出さうとしてゐるやうである。私は戦争中の苦しまぎれに詠んでゐた自分の短歌を整理してゐるうち、ふいと昔なじんだアイルランド文学のにほひを嗅いだ。自分の身に大事だつた殆ど全部の物を失くした今の私の
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
片山 広子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング