に手を入れたが、いいえ、おつりは、もうけつこうでと私が止めたので、それでは花をもう一つと言つて、彼は咲きかけたつぼみを二つきつて出した。なんと、その可愛いもも色のつぼみが二つで十銭也のおつりであつた。私はその二つのつぼみを貰つたことが嬉しいやうな悲しいやうな気持で歩き出した。
あとで聞いた噂では、そのばら屋さんは、東海道すぢの或る県のお役人で、知事さんのつぎ位な地位にゐた人であつたが、あるとき世間を騒がした疑獄事件で部下のためにわざはひされて退官し、世間から隠れてこの丘に引越して来たのだといふこと、これは誰もたしかに聞いた話ではなかつた。秋咲きのばらの咲く時分に私はまたその辺の畑みちを歩いてみたが、その日は植木屋らしい若い男が働いてゐて、主人は見えなかつた。それから二年ばかり過ぎて、この人は青天白日の身になつて又もとの世界に花々しく帰つて行き、馬込の畑は別の人の家となつた。その後二十何年か経つて、たぶん、戦争中にその人は亡くなつたやうであつた。
終戦以来、戦争の恐れだけはなくなつても、せまい入物の中で攪き廻されてゐるやうな私たちは、みんながどん底に堕ちて、但し反対にのし上がつた
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