茶にしろ、あの甘いにほひとにがみがなかつたら、茶道なんてものはないのだらう。ほうじ茶やばん茶、これは香ばしいだけでにがみがない、ずゐぶん間がぬけてゐるやうでも、それはそれで、温かい香ばしい飲物である。コーヒーのやうな強烈な香りの飲物を毎日いただく余裕のない時や胃の弱いときに、コーヒーの身がはりにほうじ茶を濃く熱く煮出して飲むと、ほんの少しだけ咽のどこかの感じがたのしくされる。たいそうほうじ茶とばん茶の悪口をいふやうだけれど、出からしのおせん茶のなまぬるいのを飲むよりどんなにおいしいか分らない。これはやはり贅沢な関東人の智慧が考へ出したものに違ひない。地方の質素な古風な家庭で育つた人なぞはお客さんの咽の感じなぞを考へることは教へられてゐないで、その生ぬるい薄いおせん茶を何度でも何度でも注いで出す。お茶を出すといふことが昔から日本人のホスピタリティであつて、奥さんみづからが立派な古めいたきうすに銀びんのお湯を注いで替へてくれるお茶は大へんなホスピタリティにちがひない。おせん茶の法式がどんなものか知らないが、出からしはたしかに本当の式ではないだらう。世の中すべてアプレになつてこの頃はそんな念
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