を見たことがない。今、あけびの油いためを食べてみると、昔の夏の茘枝《れいし》を思ひ出す。
 蕗のとうもやはりほろにがい、にがみをいへば、これが一ばんにがい。蕗のとうだけは油でいためない、すこし砂糖を入れて佃煮よりはややうす味に煮つける、無類に雅な味はひである。わかい時分に蕗のとうの好ききらひをみんなで話しあつたとき「根性の悪い人が蕗のとうを好きなんでせう」と或る江戸つ子の友達が言つた。「それでも、私みたいに善良な人間でも、蕗のとうが好きよ」と言ふと「それは例外よ」彼女は事もなく言つたけれど、しかし考へてみると、根性は悪くはないのだが、私はずゐぶん気むづかしい人間だから彼女の言葉が本当なのかもしれない。ずつと以前、池上の山ちかくに尼寺があつて、その庭が蕗で一ぱいで、春は蕗のとうが白々と見えてゐた。散歩しながら垣根の中をのぞいて、きつと、ここの尼さんたちは毎日蕗や蕗のとうを食べるのだらうと思つたりした。もう何年かあの辺を歩かない。あの尼寺はあつても、庭はあつても、蕗が生へてゐないかもしれない。
 うこぎの新芽もおいしいさうである。うこぎ(五加木)は灌木で、生垣なぞにも使はれてゐるといふ。た
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