路地
永井荷風
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)渡船《わたしぶね》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)歌川|豊国《とよくに》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)あひだ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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鉄橋と渡船《わたしぶね》との比較からこゝに思起《おもひおこ》されるのは立派な表通《おもてどほり》の街路に対して其の間々《あひだ/\》に隠れてゐる路地の興味である。擬造西洋館の商店並び立つ表通は丁度《ちやうど》電車の往来する鉄橋の趣《おもむき》に等しい。それに反して日陰の薄暗い路地は恰《あたか》も渡船の物哀《ものあはれ》にして情味の深きに似てゐる。式亭三馬《しきていさんば》が戯作浮世床《げさくうきよどこ》の挿絵に歌川国直《うたがはくになほ》が路地口のさまを描いた図がある。歌川|豊国《とよくに》はその時代(享和二年)のあらゆる階級の女の風俗を描いた絵本|時勢粧《いまやうかゞみ》の中《うち》に路地の有様を写してゐる。路地は其等の浮世絵に見る如く今も昔と変りなく細民の棲息する処、日の当つた表通からは見る事の出来ない種々《さま/″\》なる生活が潜みかくれてゐる。佗住居《わびずまひ》の果敢《はかな》さもある。隠棲の平和もある。失敗と挫折と窮迫との最終の報酬なる怠惰と無責任との楽境《らくきやう》もある。すいた同士の新世帯もあれば命掛けなる密通の冒険もある。されば路地は細く短しと雖《いへど》も趣味と変化に富むこと恰も長編の小説の如しと云はれるであらう。
今日《こんにち》東京の表通は銀座より日本橋通は勿論上野の広小路浅草の駒形通を始めとして到処《いたるところ》西洋まがひの建築物とペンキ塗の看板痩せ衰へた並樹《なみき》さては処嫌《ところきら》はず無遠慮に突立つてゐる電信柱と又目まぐるしい電線の網目の為めに、云ふまでもなく静寂の美を保つてゐた江戸市街の整頓を失ひ、しかも猶《なほ》未《いま》だ音律的なる活動の美を有する西洋市街の列に加はる事も出来ない。さればこの中途半端の市街に対しては、風雨雪月|夕陽等《せきやうとう》の助けを借るにあらずんば到底芸術的感興を催す事ができない。表通を歩いて絶えず感ずるこの不快と嫌悪の情とは一層《ひとしほ》私をして其の陰にかくれた路地の光景に興味を持たせ
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