る最大の理由になるのである。
路地はどうかすると横町同様|人力車《くるま》の通れるほど広いものもあれば、土蔵または人家の狭間《ひあはひ》になつて人《ひと》一人《ひとり》やつと通れるかどうかと危まれるものもある。勿論其の住民の階級職業によつて路地は種々《しゆ/″\》異つた体裁をなしてゐる。日本橋|際《ぎは》の木原店《きはらだな》は軒並《のきなみ》飲食店の行灯《あんどう》が出てゐる処から今だに食傷新道《しよくしやうじんみち》の名がついてゐる。吾妻橋《あづまばし》の手前|東橋亭《とうけうてい》とよぶ寄席の角《かど》から花川戸《はなかはど》の路地に這入《はい》れば、こゝは芸人や芝居者また遊芸の師匠なぞの多い処から何となく猿若町《さるわかまち》の新道の昔もかくやと推量せられる。いつも夜店の賑ふ八丁堀北島町の路地には片側に講釈の定席《ぢやうせき》、片側には娘義太夫の定席が向合《むかひあ》つてゐるので、堂摺連《だうするれん》の手拍子は毎夜|張扇《はりあふぎ》の響《ひゞき》に打交《うちまじは》る。両国の広小路に沿うて石を敷いた小路には小間物屋袋物屋煎餅屋など種々なる小売店の賑ふ有様、正《まさ》しく屋根のない勧工場《くわんこうば》の廊下と見られる。横山町|辺《へん》のとある路地の中には矢張《やはり》立派に石を敷詰めた両側ともに長門筒《ながとつゝ》袋物また筆なぞ製してゐる問屋ばかりが続いてゐるので、路地一帯が倉庫のやうに思はれる処があつた。芸者家の許可された町の路地は云ふまでもなく艶《なまめか》しい限りであるが、私はこの種類の中《うち》では新橋柳橋の路地よりも新富座裏の一角をば其のあたりの堀割の夜景とまた芝居小屋の背面を見る様子とから最も趣のあるやうに思つてゐる。路地の最も長くまた最も錯雑して、恰も迷宮の観あるは葭町《よしちやう》の芸者家町であらう。路地の内に蔵造《くらづくり》の質屋もあれば有徳《うとく》な人の隠宅《いんたく》らしい板塀も見える。わが拙作《せつさく》小説すみだ川の篇中《へんちゆう》にはかゝる路地の或場所をば其の頃見たまゝに写生して置いた。
路地の光景が常に私をして斯くの如く興味を催さしむるは西洋銅版画に見るが如き或はわが浮世絵に味《あぢは》ふが如き平民的画趣とも云ふべき一種の芸術的感興に基《もとづ》くものである。路地を通り抜ける時|試《こゝろみ》に立止つて向うを見れ
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