洋服論
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)新銭座《しんせんざ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)旧幕府|仏蘭西《フランス》

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(例)[#地から2字上げ]
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○日本人そもそも洋服の着始めは旧幕府|仏蘭西《フランス》式歩兵の制服にやあらん。その頃膝取マンテルなぞと呼びたる由なり。維新の後岩倉公西洋諸国を漫遊し文武官の礼服を定められ、上等の役人は文官も洋服を着て馬に乗ることとなりぬ。日本にて洋服は役人と軍人との表向きに着用するものたる事今においてなほ然り。
○予が父は初め新銭座《しんせんざ》の福沢塾にて洋学を修め明治四年|亜墨利加《アメリカ》に留学し帰朝の後官員となりし人にて、一時はなかなかの西洋崇拝家なりけり。予の生れし頃(明治十二年なり)先考《せんこう》は十畳の居間に椅子《いす》卓子《テーブル》を据《す》ゑ、冬はストオブに石炭を焚《た》きてをられたり。役所より帰宅の後は洋服の上衣《うわぎ》を脱ぎ海老茶色のスモーキングヂャケットに着換へ、英国風の大きなるパイプを啣《くわ》へて読書してをられたり。雨中は靴の上に更に大きなる木製の底つけたる長靴をはきて出勤せられたり。予をさな心に父上は不思議なる物あまた所持せらるる事よと思ひしことも数《しばしば》なりき。
○予が家にてはその頃既にテーブルの上に白き布をかけ、家庭風の西洋料理を食しゐたり。或年の夏先考に伴はれ入谷《いりや》の里に朝顔見ての帰り道、始めて上野の精養軒に入りしに西洋料理を出したるを見て、世間にてもわが家と同じく西洋料理を作るものあるにやと、かへつて奇異の思をなしたる事もありけり。
○予六歳にして始めてお茶の水の幼稚園に行きける頃は、世間一般に西洋崇拝の風|甚《はなはだ》熾《さかん》にして、かの丸の内|鹿鳴館《ろくめいかん》にては夜会の催しあり。女も洋服着て踊りたるほどなり。されば予も幼稚園には洋服着せられて通はされたり。これ予の始めて洋服なるもの着たる時なれど、如何なる形のものなりしや能《よ》くは記憶せず。小学校へ赴《おもむ》く頃には海軍服に半ズボンはきたる事は家にありし写真にて覚えたり。襟《えり》より後は肩を蔽《おお》ふほどに広く折返したるカラーをつけ幅広きリボンを胸元にて蝶結びにしたり。帽子は広き鍔《つば》ありて鉢巻のリボンを後に垂らしたり。ズボンは中学校に入り十五、六歳にいたるまで必《かならず》半ズボンなりき。その頃予の通学せし一橋《ひとつばし》の中学校にては夙《つと》に制服の規定ありしかば、上衣だけは立襟《たちえり》のものを着たれど長ズボンは小児の穿《うが》つべきものならずとて、予はいつも半ズボンなりしかば、この事一校の評判になりて大勢《おおぜい》のものより常に冷笑せられたり。頭髪も予は十二、三歳頃までは西洋人の小児の如く長目に刈りていたり。さればこれも学校にては人々の目につきやすく異人の児《こ》よとて笑はれたりしなり。
○つい愚にもつかぬ回旧談にのみ耽《ふけ》りて申訳なし。さて当今大正年間諸人の洋服姿を拝見して聊《いささ》か愚論を陳《の》ぶべし。
○日露戦争この方十年来|到処《いたるところ》予の目につくは軍人ともつかず学生ともつかぬ一種の制服姿なり。市中電車の雇人《やといにん》、鉄道院の役人、軍人の馬丁。銀行会社の小使《こづかい》なぞ、これらの者殆ど学生と混同して一々その帽子またはボタンの徽章《きしょう》にでも注意せざれば、何が何やら区別しがたき有様なり。以前は立襟の制服は学生とのみ、きまりてゐたりし故、敝衣《へいい》も更に賤《いや》しからず、かへつて物に頓着せぬ心掛殊勝に見えしが、今日にては塵にまみれし制服着て電車に乗れば車掌としか見受けられず。学生の奢侈《しゃし》となりしも道理なり。
○到る処金ボタン立襟の制服目につくは世を挙げて、陸軍かぶれのした証拠なり。何となく独逸《ドイツ》国にゐるやうな心地にてわれらには甚《はなはだ》閉口なる世のさまといふべし。
○夏となればまた制服ならぬ一種の制服目につくなり。銀行会社は重役|頭取《とうどり》より下は薄給の臨時雇のものに至るまで申合せたるやうに白き立襟の洋服を着《き》手に扇子《せんす》をパチクリさせるなり。保険会社の勧誘員新聞記者また広告取なぞもこれに傚《なら》ふ。日比谷辺より銀座丸内一帯は上海《シャンハイ》香港《ホンコン》の如き植民地のやうになるなり。
○日本人は洋服着ながら扇子を携へ持ち、人と対談中も絶間なくパチクリ音をさせる。但しこれを見て別に怪しむ者もなきが如し。これ日本当代特異の風習なり。西洋にては男子は寒暄《かんけん》にかかはらず扇子を手にすることなし。扇子は婦人の形容に携ふるものたる事なほ
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