男子の杖におけるが如し。されば婦人にても人の面前にては扇を開きてあふぐ事なし。半開になして半面を蔽ふなぞ形容に用るのみなり。然るに我国当世のさまを見るに、新聞記者の輩《やから》は例の立襟の白服にて人の家に来り口に煙草を啣《くわ》へ肱《ひじ》を張つてパタパタ扇子を使ふが中には胸のボタンをはづし肌着メリヤスのシャツを見せながら平然として話し込むも珍しからず。
○我国にては扇は昔より男子の携持《たずさえも》ちたるものなれど、人の面前にて妄《みだり》に涼を取るものにはあらず、形容をつくらんがため手に持つのみにて開閉すべきものにはあらざるべし。
○メリヤスの肌着は当今の日本人上下一般に用ふる所なり。日本人はメリヤスの肌着をホワイトシャーツと同じもののやうに心得てゐるが如くなれどこれ甚しき誤なり。ホワイトシャーツは譬《たと》へば婦人の長襦袢《ながじゅばん》の如し。長襦袢には半襟をつける。ホワイトシャーツにはカラアをつける。婦女子が長襦袢は衣服の袖口または裾より現れ見ゆるも妨げなきものなり。ホワイトシャーツもまたその如し。然れどもメリヤスの肌着に至つては犢鼻褌《ふんどし》も同様にて、西洋にては如何なる場合にも決して人の目に触れしむべきものにあらず。米国人は酷暑の時節には上衣を脱しホワイトシャーツ一枚になつてをる事もあれど、この場合にてもメリヤスの肌着は見えぬやうに注意するなり。ホワイトシャーツの袖口高く巻上げ腕を露出せしむる時にもメリヤスの肌着は見せぬやうにするなり。米国にて男子扇子を携ふること決してなし。
○暑中銀行会社なぞにて事務を取る者は米国にては上衣を脱する事を許さるるなり。されどこの場合ズボン釣はせぬ方よしとせらる。ズボンは皮帯にて締めボタンを隠すなり。
○暑中用ふるホワイトシャーツには胸の所軟く袖口も糊《のり》ばらぬものあり。従つて色も白とはかぎらず、変り縞《じま》多し。皆米国の流行にして礼式のものならずと知るべし。
○米国は市俄古《シカゴ》紐育《ニューヨーク》いづこも暑気非常なる故|龍動《ロンドン》または巴里《パリー》の如く品《ひん》好《よ》き風俗は堪難《たえがた》し。我国夏季の気侯は、温度は米国に比すれば遥に低けれど、湿気あつて汗多く出るをもて洋服には甚不便なり。日々洋服きて役所会社に出勤する人々の苦しみさぞかしと思へど規則とあれば是非なし。むかしは武士のカラ脛《ずね》、奴《やっこ》の尻の寒晒《かんざら》し。今の世には勤人《つとめにん》が暑中の洋服。いつの世にも勤はつらいものなり。
○近年堅きカラーの代りにシャツと同色《ともいろ》の軟きカラーを用ゆるものあり。これまた米国の風にして欧洲にては多く見ざる所なり。米国にても若き人|専《もっぱら》これを用ひ老人はあまり用ひず。
○パナマ帽は欧洲にても大陸の流行にて英国にては用る者少し。米国もまた然り。英米人の夏帽子には麦藁《むぎわら》多しと、五、六年前帰朝者の語る所なり今は知らず。
○ハンケチは晒麻《さらしあさ》の白きを上等とす。繍取《ぬいとり》または替り色は婦人のものなり。男子これを用る時は気障《きざ》の限りなるべし。米国にてはきざな男折々ハンケチを上衣《うわぎ》胸のかくしよりちよつと見せる風あり。英国人は袖口へハンケチを丸めて入れ込む風あり。
○米国人は雨中といへども傘を携へず。いはんや晴天の日傘《ひがさ》をや。細巻の洋傘ステッキの如くに細工したるものは旅行用なり。熱帯の植民地は一日に二、三回|必《かならず》驟雨《しゅうう》来るが故に外出の折西洋人は傘を携ふ。日本の気候四季共に雨多し。植民地の風をまなびて傘を携ふべきことけだしやむをえざるなり。ヘルメット帽は驟雨に逢ふ時は笠の代用をなし炎天には空気抜より風通ひて凉しく、熱帯には適したるもの。英国人の工風《くふう》に創《はじ》まるといふ。
○半靴は米国にては人々酷暑の折これを用ゆ。欧洲にては寒暑共に半靴を穿《うが》つものなし。赤皮の靴は米国欧洲ともに夏にかぎりて用ゆるも礼式には避くべきなり。然るに日本にてはフロックコートに赤皮の半靴はきたる人折々あり。これ紋付羽織袴《もんつきはおりはかま》にて足袋《たび》をはかざるが如きものなり。
○洋服はその名の示すが如く洋人の衣服なれば万事本場の西洋を手本にすべきは言ふを俟《ま》たざる所なり。然れども色地縞柄なぞはその人々の勝手なる故、日本人洋服をきる場合には黄《きいろ》き顔色に似合ふべきものを択ぶ事肝要なるべし。色白き洋人には能《よ》く似合ふものも日本人には似合はぬ事多し。黒、紺《こん》、鼠なぞの地色は何人にも似合ひて無事なり。英国人は折々狐色の外套を着たり。よく似合ふものなり。日本人には似合はず。縞柄あらきものは下品に見ゆ。霜降り地最も無事なるべし。
○洋服の形は皆様|御存《ごぞんじ》の通
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