り、背広、モオニングコート、フロックコート、燕尾服《えんびふく》の類なり。背広は不断着《ふだんぎ》のものにて日本服の着流しに同じ。モオニングコートも儀式のものにはあらず。欧洲にては背広の代りにモオニングをきてゐる人多し。背広にては商店の手代《てだい》に見まがふ故なるべし。日本人は身丈《みたけ》高からざる故モオニングは似合はず。かつまたその仕立形むづかしきもの故、日本にてはやはり背広が無事なり。
○米国にては上下を通じて大抵の人皆背広を用ふ。米国の仕立は欧洲のものに比してズボンも上衣も共にゆつたりとしてだぶだぶするほどなり。欧洲にても英国風は少しゆるやかなる方なれど、仏蘭西風はキチンと身体に合ふやうにし袖《そで》の付根《つけね》なぞ狭くして苦しきほどなり。日本人には米国風の仕立方適するが如し。されど男物は英国風を以て随一となすことあたかも女物の巴里《パリー》におけるにひとし。これ世界の定論なり。
○欧米の官吏は日々フロックコートを着るなり。されば紐育《ニューヨーク》市俄古《シカゴ》なぞよべる商業地には官庁なく従つて官吏なきを以て、宣教師の外には見すぼらしきフロックコートの人を目にすること稀なり。これに反して華盛頓《ワシントン》府を始め各州の首都に至ればフロックコートきたる人多し。フロックコートに用る帽子は必《かならず》シルクハットなるべし。欧洲にてはモーニングコートに高帽子を冠るもの尠《すくな》からず。品よく見えてよきものなり。
○午後の集会茶談会、または訪問の折には欧米共に必フロックコートを着し点燈の頃より燕尾服に着換ふるなり。西洋にて紳士風の生活をなすには一日の中に三度衣服と帽子とを換へざるべからず。これ東洋|豪傑肌《ごうけつはだ》の人の堪へ得べき所にあらざるべし。
○手袋は寒暑ともに穿つものなり。これもまた日本人には煩瑣《はんさ》に堪へざる所ならん。
○杖は日本人もこれを携《たずさう》るもの多し。されどよく見るに杖の携方を心得たるは稀なり。西洋の杖はわが国の老人または盲者の杖とは異るものにて形容に過ぎず。歩行を扶《たす》けんがために地面に突くべきものには非らざるなり。杖の先に土の附きたるは甚見苦しきものなり。杖は客間にも帽子と共に携へ入りて差つかへなきものなればその先には土の附かぬやうにすべきなり。西洋にては美術館、図書館、劇場等到処杖を持ちたるままにて出入し得るなり。日本にては杖は下駄同様に取上げらるるが故銀細工|象牙《ぞうげ》細工なぞしたるものは忽《たちまち》疵物《きずもの》になさるる虞《おそれ》あり。東京市中電車雑沓の中にて泥の附きたる杖傘の先をば平然として人の鼻先へ突付ける紳士もあり。洋風を模していまだ至る事|能《あた》はざる大正の世の中|洵《まこと》に笑ふべきこと多し。
○帽子は既に述べしが如く洋服の形に従つて各《おのおの》戴くべきものあり。背広に鳥打帽を冠るは適《ふさわ》しからず。鳥打帽はその名の如く銃猟、旅行航海等の折にのみ用るものにて、平生都会にてこれを戴くもの巴里あたりにては職工か新聞売子なぞなるべし。欧米ともに黒の山高帽は普通一般に用ひらるるものなり。殊に米国東部の都市にては晴雨共に風甚しきが故、中折帽は吹飛ばされて不便なり。かつまた山高帽は丈夫にて雨にあたりても形崩れず、甚経済なるものなり。夏の炎天にても黒山高帽にてすこしも可笑《おか》しきことなし。中折帽は春より夏にかけて年々の流行あり。されば中折帽を冠るほどなれば洋服もこれに準じて流行の形に従はざれば釣合はずと知るべし。日本人は一般に中折帽を好む。然れども市中の電車にて見るが如き形の崩れたる古き中折帽は西洋にては土工の戴けるものの外《ほか》見ることなし。米国にては上下の階級なき故日曜日には職工も新しき黒の山高帽を戴き女房の手を引きて教会へ説教聞きに行くなり。
○洋服の仕立は日本人よりも支那人の方遥に上手なり。東京にては帝国ホテル前の支那人洋服店評判よし。燕尾服もこの店なれば仕立て得べし。銀座の山崎なぞは暴利を貪るのみにて、縫目《ぬいめ》あるいはボタンのつけ方|健固《けんご》ならず。これ糸を惜しむ故にして、日本人の商人ほど信用を置きがたきはなし。
○仏蘭西にて画工詩人音楽家俳優等は方外の者と見なされ、礼儀に拘捉《こうそく》せざるもこれを咎《とが》むるものなし。さればこの仲間の弟子には自ら特別の風俗あり、頭髪を長くのばし衣服は天鵞絨《ビロード》の仕事服にて、襟かざりの長きを風になびかし、帽子は大黒頭巾の如きを冠る。中折帽に似てその鍔《つば》広く大なるを冠るもあり。これを芸人帽子(シャッポーダルチスト)と呼ぶなり。冬も外套を着ず。マントオを身にまとふ。眉目清秀《びもくせいしゅう》なる青年にてその姿やや見すぼらしきが雪の降る夕なぞ胡弓入れたる革鞄《かわかば
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