けれ。
[#ここで字下げ終わり]
という句がある。
自分が頻《しきり》に芝山内《しばさんない》の霊廟《れいびょう》を崇拝して止まないのも全くこの心に等しい。しかしレニエエは既に世界の大詩人である。彼と我と、その思想その詩才においては、いうまでもなく天地雲泥の相違があろう。しかし同じく生れて詩人となるやその滅びたる芸術を回顧する美的感奮の真情に至っては、さして多くの差別があろうとも思われぬ。
否々《いないな》。自分は彼れレニエエが「われはヴェルサイユの最後の噴泉そが噴泉の都の面《おもて》に慟哭《どうこく》するを聴く。」と歌った懐古の情の悲しさに比較すれば、自分が芝の霊廟に対して傾注する感激の底には、かえって一層の痛切一層の悲惨が潜んでいなければならぬはずだと思うのである。
ポンペイの古都は火山の灰の下にもなお昔のままなる姿を保存していた実例がある。仏蘭西の地層から切出した石材のヴェルサイユは火事と暴風《あらし》と白蟻との災禍を恐るる必要なく、時間の無限中《むげんちゅう》に今ある如く不朽に残されるであろう。けれども我が木造の霊廟は已にこの間《あいだ》も隣接する増上寺《ぞうじょうじ》の
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