場寄りの或露地の中に、吉里が着て行ツたお熊《くま》の半天が脱捨《ぬぎすて》てあり、同じ露地の隅田川の岸には娼妓《ぢよらう》の用ゐる上草履と男物の麻裏草履とが脱捨てゝあツた事が知れた。(略)お熊《くま》は泣々《なく/\》箕輪《みのわ》の無縁寺に葬むり、小万はお梅を遣ツては、七日/\の香華を手向けさせた。
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箕輪の無縁寺《むえんでら》は日本堤の尽きやうとする処から、右手に降りて、畠道を行く事一二町の処に在つた浄閑寺を云ふのである。明治三十一二年の頃、わたくしが掃墓に赴いた時には、堂宇は朽廃し墓地も荒れ果てゝゐた。この寺はむかしから遊女の病死したもの、又は情死して引取手のないものを葬る処で、安政二年の震災に死した遊女の供養塔が目に立つばかり。其他《そのほか》の石は皆小さく蔦かつらに蔽はれてゐた。その頃年少のわたくしが此寺の所在を知つたのは宮戸座の役者達が新比翼塚なるものに香華を手向けた話をきいた事からであつた。新比翼塚は明治十二三年のころ品川楼で情死をした遊女|盛糸《せいし》と内務省の小吏谷豊栄|二人《ににん》の追善に建てられたのである。(因に云ふ。竜泉寺町の大音
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