家の作は全く其形式を異にしてゐるのであるが、其情調の叙事詩的なることは同一である。「今戸心中」第一回の数行を見よ。

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太空《そら》は一片の雲も宿《とゞ》めないが黒味渡ツて、廿四日の月は未だ上らず、霊あるが如き星のきらめきは、仰げば身も冽《しま》る程である。不夜城を誇顔の電気灯は、軒より下の物の影を往来へ投げて居れど、霜枯三月《しもがれみつき》の淋しさは免れず、大門から水道尻まで、茶屋の二階に甲走ツた声のさゞめきも聞えぬ。
明後日が初酉の十一月八日、今年は稍|温暖《あたゝか》く小袖を三枚《みツつ》重襲《かさね》る程にもないが、夜が深けては流石に初冬の寒気《さむさ》が感じられる。
少時前《いまのさき》報《う》ツたのは、角海老《かどえび》の大時計の十二時である。京町には素見客《ひやかし》の影も跡を絶ち、角町《すみちやう》には夜《よ》を警《いまし》めの鉄棒《かなぼう》の音も聞える。里の市が流して行く笛の音が長く尻を引いて、張店にも稍|雑談《はなし》の途断《とぎ》れる時分となツた。
廊下には上草履の音がさびれ、台の物の遺骸を今|室《へや》の外へ出して居る所もある。遥かの三
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