、そのまゝの牛肉屋|常磐《ときは》の門前から斜に堤を下り、やがて真直に浅草公園の十二階下に出る千束町二三丁目の通りである。他の一筋は堤の尽きるところ、道哲《だうてつ》の寺のあるあたりから田町へ下りて馬場へつゞく大通である。電車のない其時分、廓へ通ふ人の最も繁く往復したのは、千束町二三丁目の道であつた。
この道は、堤を下《おり》ると左側には曲輪の側面、また非常門の見えたりする横町が幾筋もあつて、車夫や廓者などの住んでゐた長屋のつゞいてゐた光景は、「たけくらべ」に描かれた大音寺前の通りと変りがない。やがて小流れに石の橋がかゝつてゐて、片側に交番、片側に平野といふ料理屋があつた。それから公園に近くなるにつれて商店や飲食店が次第に増えて、賑な町になるのであつた。
震災の時まで、市川猿之助君が多年住んでゐた家はこの通の西側に在つた。酉の市の晩には夜通し家を開け放ちにして通りがゝりの来客に酒肴《さけさかな》を出すのを吉例としてゐたさうである。明治三十年頃には庭の裏手は一面の田圃であつたといふ話を聞いたことがあつた。さればそれより以前には、浅草から吉原へ行く道は馬道の他《ほか》は、皆《みな》田間
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