である。
 江戸のむかし、吉原の曲輪《くるわ》がその全盛の面影を留めたのは山東京伝の著作と浮世絵とであつた。明治時代の吉原と其附近の町との情景は、一葉女史の「たけくらべ」、広津柳浪の「今戸心中」、泉鏡花の「註文帳」の如き小説に、滅び行く最後の面影を残した。
 わたくしが弱冠の頃、初めて吉原の遊里を見に行つたのは明治三十年の春であつた。「たけくらべ」が文芸倶楽部第二巻第四号に、「今戸心中」が同じく第二巻の第八号に掲載せられた其翌年である。
 当時遊里の周囲は、浅草公園に向ふ南側|千束町《せんぞくまち》三丁目を除いて、その他の三方にはむかしのまゝの水田《みづた》や竹藪や古池などが残つてゐたので、わたくしは二番目狂言の舞台で見馴れた書割、または「はや悲し吉原いでゝ麦ばたけ。」とか、「吉原へ矢先そろへて案山子かな。」など云ふ江戸座の発句を、そのまゝの実景として眺めることができたのである。
 浄瑠璃と草双紙とに最初の文学的熱情を誘ひ出されたわれ/\には、曲輪外のさびしい町と田圃の景色とが、いかに豊富なる魅力を示したであらう。
 その頃、見返柳《みかへりやなぎ》の立つてゐた大門《おほもん》外の堤に
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