場寄りの或露地の中に、吉里が着て行ツたお熊《くま》の半天が脱捨《ぬぎすて》てあり、同じ露地の隅田川の岸には娼妓《ぢよらう》の用ゐる上草履と男物の麻裏草履とが脱捨てゝあツた事が知れた。(略)お熊《くま》は泣々《なく/\》箕輪《みのわ》の無縁寺に葬むり、小万はお梅を遣ツては、七日/\の香華を手向けさせた。
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 箕輪の無縁寺《むえんでら》は日本堤の尽きやうとする処から、右手に降りて、畠道を行く事一二町の処に在つた浄閑寺を云ふのである。明治三十一二年の頃、わたくしが掃墓に赴いた時には、堂宇は朽廃し墓地も荒れ果てゝゐた。この寺はむかしから遊女の病死したもの、又は情死して引取手のないものを葬る処で、安政二年の震災に死した遊女の供養塔が目に立つばかり。其他《そのほか》の石は皆小さく蔦かつらに蔽はれてゐた。その頃年少のわたくしが此寺の所在を知つたのは宮戸座の役者達が新比翼塚なるものに香華を手向けた話をきいた事からであつた。新比翼塚は明治十二三年のころ品川楼で情死をした遊女|盛糸《せいし》と内務省の小吏谷豊栄|二人《ににん》の追善に建てられたのである。(因に云ふ。竜泉寺町の大音寺も亦遊女の骨を埋めた処で、むかし蜀山人が碑の全文を里言葉でつくつた遊女なにがしの墓のある事を故老から聞き伝へて、わたくしは両三度之を尋ねたが遂に尋ね得なかつた事がある。)
 日本堤を行き尽して浄閑寺に至るあたりの風景は、三四十年|後《ご》の今日《こんにち》、これを追想すると、恍として前世を悟る思ひがある。堤の上は大門近くとはちがつて、小屋掛けの飲食店もなく、車夫も居ず、人通りもなく、榎か何かの大木が立つてゐて、其幹の間から、堤の下に竹垣を囲《めぐら》し池を穿つた閑雅な住宅の庭が見下された。左右ともに水田のつゞいた彼方には鉄道線路の高い土手が眼界を遮つてゐた。そして遥か東の方に小塚ツ原の大きな石地蔵の後向きになつた背が望まれたのである。わたくしは若し当時の遊記や日誌を失はずに持つてゐたならば、読者の倦むをも顧ずこれを採録せずには居なかつたであらう。
 わたくしは遊廓をめぐる附近の町の光景を説いて、今余すところは南側の浅草の方面ばかりとなつた。吉原から浅草に至る通路の重なるものは二筋あつた。その一筋は大門を出て堤を右手に行くこと二三町、むかしは土手の平松《ひらまつ》とか云つた料理屋の跡を
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