、滄桑の感に堪へない余りである。
「忍《しのぶ》ヶ|岡《をか》」は上野谷中の高台である。「太郎稲荷」はむかし柳河藩主立花氏の下屋敷に在つて、文化のころから流行《はや》りはじめた。屋敷の取払はれた後、社殿と其周囲の森とが浅草|光月町《くわうげつちやう》に残つてゐたが、わたくしが初めて尋ねて見た頃には、其社殿さへわづかに形《かた》ばかりの小祠になつてゐた。「大音寺前の温泉」とは普通の風呂屋ではなく、料理屋を兼ねた旅館ではないかと思はれる。其名前や何かは之を詳にしない。当時入谷には「松源《まつげん》」、根岸に「塩原《しほばら》」、根津に「紫明館《しめいくわん》」、向島に「植半《うゑはん》」、秋葉に「有馬温泉」などいふ温泉宿があつて、芸妓をつれて泊りに行くものも尠くなかつた。「今戸心中」はその発表せられたころ、世の噂によると、京町二丁目の中米楼《なかごめろう》に在つた情死を材料にしたものだと云ふ。然し中米楼は重に茶屋受の客を迎へてゐたのに、「今戸心中」の叙事には引手茶屋のことが見えてゐない。その頃裏田圃が見えて、そして刎橋のあつた娼家で、中米楼についで稍格式のあつたものは、わたくしの記憶する所では京二の松大黒《まつだいこく》と、京一の稲弁《いなべん》との二軒だけで、其他は皆|小格子《こがうし》であつた。
「今戸心中」が明治文壇の傑作として永く記憶せられてゐるのは、篇中の人物の性格と情緒とが余す所なく精細に叙述せられてゐるのみならず、又妓楼全体の生活が渾然として一幅の風俗画をなしてゐるからである。篇中の事件は酉の市の前後から説き起されて、年末の煤払ひに終つてゐる。吉原の風俗と共に情死の事を説くには最も適切な時節を択んだところに作者の用意と苦心とが窺はれる。わたくしはこゝに最終の一節を摘録しやう。

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小万《こまん》は涙ながら写真と遺書《かきおき》とを持つたまゝ、同じ二階の吉里《よしざと》の室《へや》へ走ツて行ツて見ると、素より吉里の居《を》らう筈がなく、お熊を始め書記《かきやく》の男と他《ほか》に二人ばかり騒いでゐた。小万は上《かみ》の間《ま》に行ツて窓から覗いたが、太郎稲荷、入谷、金杉あたりの人家の灯火《ともしび》が散見《ちらつ》き、遠く上野の電気灯が鬼火《ひとだま》の様に見えて居るばかりである。
次の月の午時頃《ひるごろ》、浅草警察署の手で、今戸の橋
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