新橋赤坂で流行したようなダンスを見せる芸者が続々として現れるようになったという話をきいた。浅草の興行街で西洋風のレヴューがはやり初めたのも昭和になってからの事で、震災頃までは安木節《やすぎぶし》の踊や泥鰌《どじょう》すくいが人気を集めていたのであるが、一変して今見るような西洋風のダンスになったのである。(震災前後金龍館で興行していたオペラがあったがその一座はレヴューの流行する前に解散された。)
 裸体の流行は以上の如く戦争後に始めて起った事であるが、西洋ではむかしからあったものであろう。私が西洋にいたのは今から四十年前の事だが、裸体なぞはどこへ行っても見られるから別に珍しいとも思わなかった。女郎屋へ上って広い応接間に案内されると、二、三十人裸体になった女が一列になって出て来る。シャンパンを抜いてチップをやると、女たちは足を揃えて踊って見せるのだ。巴里《パリー》のムーランルージュという劇場は廊下で食事もできる。酒も飲める。食事をしながら舞台の踊を見ることができるようになっていた。また廊下から地下室へ下りて行くと、狭い舞台があって、ここでは裸体の女の芸を見せる。しかしこういう場所の話は公然
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