。もし芸術上これを非とするならばその罪は大衆小説家の負うべき所だといっても差閊《さしつかえ》はないであろう。
 女の裸体ダンスを見せる事について思出したことがあるから、ここに補って置く。それは大正十年頃、東京市中にダンス場ができ始めた頃である。新橋赤坂辺の茶屋の座敷で、レコードの伴奏で裸体ダンスを見せる女があった。一時評判になって前の日から口を掛けて置かなければ呼んでも来られないというほどの景気であった。裸体を見せる女は芸者ではないが、商売上名義だけ芸者ということになっていたので、見たいと思うお客は馴染《なじみ》の茶屋から口をかけて呼んでもらうのである。一座敷時間は十分間ぐらいで、報酬は拾五円が普通、それ以上御好みのきわどい[#「きわどい」に傍点]芸をさせるには二、三十円であった。その当時、最初はこの女一人であったがほどなく新橋|南地《なんち》の新布袋家《しんほていや》という芸者家からも、同じようなダンスを見せる女が現れた。間もなく震災があって、東京の市街は大方《おおかた》焼けてしまったので、裸体ダンスの噂もなくなったが、昭和になってから向島、平井町、五反田あたり新開町の花柳界には以前
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