矢立のちび筆
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)或人《あるひと》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)歳月|匆々《そうそう》

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     或人《あるひと》に答ふる文《ぶん》

 思へば千九百七、八年の頃のことなり。われ多年の宿望を遂げ得て初めて巴里《パリー》を見し時は、明《あ》くる日を待たで死すとも更に怨《うら》む処なしと思ひき。泰西諸詩星《たいせいしょしせい》の呼吸する同じき都の空気をばわれも今は同じく吸ふなり。同じき街の敷石をば響も同じくわれも今は踏むなり。世界の美妓名媛《びぎめいえん》の摘む花われもまた野に行かば同じくこれを摘むことを得ん。われはヴェルレエヌの如くにカッフェーの盃《さかずき》をあげレニエーの如くに古城を歩み、ドーデの如くにセーヌの水を眺め、コッペエの如くに舞蹈場《ぶとうじょう》に入り、ゴーチエーの如くに画廊を徘徊しミュッセの如くにしばしば泣きけり。かくてわれは世に最も幸福なる詩人となりぬ。如何《いかん》となればわれは崇《あが》め祭るべき偶像あまた持つ事を得たればなり。十七世紀以降二十世紀に至る仏蘭西《フランス》文芸史上にその名を掲げられしものは悉《ことごと》くわが神なりけり。然れどもわれは仏蘭西語にて物書く事能はざりしかばやむなく日本語を以てわが感想を述べ綴《つづ》りき。この弱点は忽《たちま》ち怪我《けが》の功名《こうみょう》となりぬ。もしわれにして恣《ほしいまま》に仏蘭西文をものし得たらんには、軽々しくジャン・モレアスを学びて外人にして仏蘭西文壇に出《いづ》るも豈《あに》難《かた》からんやなど、法外の野望を起したらんも知るべからず。然れども幸《さいわい》なる哉《かな》、わが西洋崇拝の詩作は尽《ことごと》く日本文となりて日本の文壇に出づるや、当時文壇の風潮と合致する処ありければ忽《たちま》ち虚名を贏《か》ち得たりき。けだし偶然の事なり。
 歳月|匆々《そうそう》十歳《じっさい》に近し。われ今当時の事を顧《かえりみ》れば茫《ぼう》として夢の如しといはんのみ。如何《いかん》となればわれまた当時の如き感情を以て物を見る事能はざればなり。物あるひは同じかるべきも心は全く然《しか》らず。われは当初日本の風景及
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