桙フ賑《にぎやか》さには引変《ひきか》へて、静《しづま》り行く夜《よる》の影深く四辺《あたり》を罩《こ》めたれば、身は忽然見も知らぬ街頭に迷出《まよひい》でたるが如く、朧気《おぼろげ》なる不安と、それに伴ふ好奇の念に誘はれて、行手も定めず歩み度き心地《こゝち》に相成り候。
 然り、夜深《よふけ》の街の趣味は、乃《すなは》ちこの不安と懐疑と好奇の念より呼び起さるゝ神秘に有之候《これありそろ》。既に灯《ひ》を消し、戸を閉《とざ》したる商店の物陰に人|佇立《たゝず》めば、よし盗人《ぬすびと》の疑ひは起さずとも、何者の何事をなせるやとて窺ひ知らんとし、横町《よこちやう》の曲り角に制服いかめしき巡査の立つを見れば、訳もなく犯罪を連想致し候。帽子を眉深《まぶか》に、両手を衣嚢《かくし》に突込《つきこ》みて歩み行く男は、皆賭博に失敗して自殺を空想しつゝ行くものゝ如く見え、闇より出でゝ、闇の中《うち》に馳過《はせすぐ》る馬車あれば、其の中《うち》には必ず不義の恋、道ならぬ交際《まじはり》の潜めるが如き心地して、胸は訳もなく波立ち、心|頻《しきり》に焦立つ折から、遥か彼方《あなた》に、ホテルやサルーンの燈火、更けたる夜《よ》を心得顔に赤々と輝くを望み見れば、浮世の限りの楽《たのし》みは此処にのみ宿ると云はぬばかり。入りつ出でつ揺《ゆらめ》く男女の影は放蕩の花園に戯《たはむ》れ舞ふ蝶に似て、折々流れ来《きた》る其等の人の笑ふ声語る声は、云難《いひがた》き甘味《かんみ》を含む誘惑の音楽に候はずや。
 恐しき「定め」の時にて候。この時この瞬間、宛《さなが》ら風の如き裾の音高く、化粧の香《か》を夜気《やき》に放ち、忽如《こつじよ》として街頭の火影《ほかげ》に立現《たちあらは》るゝ女は、これ夜《よる》の魂、罪過と醜悪との化身《けしん》に候。少女マルグリツトの家の戸口に悪魔《メフイスト》が呼出《よびいだ》す魔界の天使に御座候。彼女等は夜《よる》に彷徨《さまよ》ふ若き男の過去未来を通じて、その運命、その感想の凡《すべ》てを洞察し尽せる神女に候。
 されば男は此処にその呼び止《とむ》る声を聞きその寄添《よりそ》ふ姿を見る時は、過ぎし昔の前兆を今又目前に見る心地して、その宿命に満足し、犠牲に甘んじて、冷き汚辱《をじよく》の手を握り申侯。
 余は劇場を出でゝより更け渡りたるブロードウヱーを歩み/\て、か
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング