る人間が一切の欲望、幸福、快楽の象徴なるが如く映じ申候。同時にこれ人間が神の意志に戻《もと》り、自然の法則に反抗する力ある事を示すものと思はれ候。人間を夜の暗さより救ひ、死の眠りより覚《さま》すものはこの燈火に候。燈火は人の造りたる太陽ならずや、神を嘲《あざけ》りて知識に誇る罪の花に侯はずや。
さればこの光を得、この光に照されたる世界は魔の世界に候。醜行《しうかう》の婦女もこの光によりて貞操の妻、徳行の処女よりも美しく見え、盗賊の面《おもて》も救世主の如く悲壮に、放蕩児《ほうたうじ》の姿も王侯の如くに気高《けだか》く相成り候。神の栄《さか》え霊魂の不滅を歌ひ得ざる堕落の詩人は、この光によりて初めて罪と暗黒の美を見出《みいだ》し候。ボードレールが一句、
[#ここから2字下げ]
Voice le soir chermant, ami du criminel;
〔Il vient comme un complice, a` pas de loup; le ciel〕
〔Se ferme lentement comme une grande alco^ve,〕
〔Et l'homme impatient se change en be^te fauve.〕
[#ここで字下げ終わり]
「悪徒の友なる懐《いと》しき夜《よ》は狼の歩み静《しづか》かに共犯人《かたうど》の如く進み来りぬ。いと広き寝屋《ねや》の如くに、空|徐《おもむろ》に閉《とざ》さるれば心|焦立《いらだ》つ人は忽《たちまち》野獣の如くにぞなる……」と。余は昨夜も例の如く街に灯《ひ》の見ゆるや否や、直《たゞち》に家を出で、人多く集《あつま》り音楽|湧出《わきいづ》るあたりに晩餐を食して後《のち》、とある劇場に入り候。劇を見る為めには非ず、金色《こんじき》に彩《いろど》りたる高き円天井《まるてんじやう》、広き舞台、四方の桟敷《さじき》に輝き渡る燈火の光に酔《ゑ》はんが為めなれば、余は舞姫多く出でゝ喧《かしま》しく流行歌《はやりうた》など歌ふ趣味低きミユーヂカル、コメデーを選び申候。
こゝに半夜を費《つひや》し軈《やが》て閉場のワルツに送られて群集と共に外に出《いづ》るや、冷《つめた》き風|颯然《さつぜん》として面を撲《う》つ……余は常に劇場を出でたる此の瞬間の情味を忘れ得ず候。見廻す街の光景は初夜の頃入場したる
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
永井 荷風 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング