る。さりとてこの人数袂をつらねて散歩に行くべき処もない。上野公園の森は目の前に見えているが無論行く気にはならない。兎に角一同自動車に乗ろうとする間際になって、ふと震災後向島はどんなになっているだろうと言うような事から、始めて車を東に向けさせることにしたが、さて吾妻橋を渡り枕橋を過ると、またしても行先が定まらないので、已むことを得ず百花園という事にきめた。向島へ来れば百花園で休むという事が曾て一般の習慣《ならわし》になっていた。その時代にわたくし達は人と成ったので、今之に対して異議を言うものは一人もない。わたくし達は又既に百花園の荒廃に帰して今更これを訪うべき価値のないことをも熟知していた。さればこの場合に之を云々するのは、恰も七十の老翁を捉えて生命保険の加入契約を勧告し、或はまた玉の井の女に向って悪疾の有無を問うにもひとしく、あまりにばかばかし過る事である。是亦車中百花園行を拒むもののなかった理由であろう。わたくし達は、又日々社会の新事物に接する毎に絶間なく之に対する批判の論を耳にしている。今の世は政治学芸のことに留らず日常坐臥の事まで一として鑑別批判の労をからなくてはならない。之がた
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