百花園
永井荷風

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)来《きた》って

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|猶《なお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「匸<編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第4水準2−3−48]

 [#…]:返り点
 (例)緑葉成[#レ]陰子満[#レ]枝
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 友の来《きた》って誘うものあれば、わたくしは今|猶《なお》向島の百花園に遊ぶことを辞さない。是《これ》恰《あたか》も一老夫のたまたま夕刊新聞を手にするや、倦《う》まずして講談筆記の赤穂義士伝の如きものを読むに似ているとでも謂《い》うべきであろう。老人は眼鏡の力を借りて紙上の講談筆記を読む。その講談は老人の猶衰えなかった頃徒歩して昼寄席《ひるよせ》に通い、其耳に親しく聴いたものに較べたなら、呆れるばかり拙劣な若い芸人の口述したものである。然し老人は倦まずによく之を読む。
 わたくしが菊塢の庭を訪うのも亦《また》斯《か》くの如くである。老人が靉靆《めがね》の力を借るが如く、わたくしは電車と乗合自動車に乗って向島に行き、半枯れかかっている病樹の下に立って更に珍しくもない石碑の文をよみ、また朽廃した林亭の縁側に腰をかけては、下水のような池の水を眺めて、猶且つ倦まずに半日を送る。
 老人が夕刊紙に目を注ぐのは偶然夕刊紙がその手に触れて、その目の前に展《ひろ》げられたが故であろう。紙上に見渡される世事の報道には、いかに重大な事件が記載せられていても、老人の身には本より何等の痛痒をも感じさせぬので、遣《や》り場のない其の視線は纔《わずか》に講談筆記の上につなぎ留められる。しかも講談筆記の題材たるや既に老人の熟知するところ。其の陳腐にして興味なきことも亦よく予想せられるところであるが、これ却って未知の新しきものよりも老人の身には心易く心丈夫に思われ、覚えず知らず行を逐《お》って読過せしめる所以《ゆえん》ともなるのであろう。この間の消息は直にわたくしが身の上に移すことが出来る。わたくしは近年東京市の内外に某処の新公園、または遊園地の開かれたことを聞いているが、わざわざ杖を曳く心にはならない。それよりは矢張見馴れた菊塢が庭を歩いて、茫然として病樹荒草に対していた方が、まだしも不快なる感を起すまいと思うのである。
 菊塢の百花園は世人の知るが如く亀戸村の梅園に対して新梅荘と称せられていたが、梅は次第に枯死し、明治四十三年八月の水害を蒙ってから今は遂に一株をも存せぬようになった。水害の前の年、園中には尚数株の梅の残っていた頃である。花候の一日わたくしは園梅の枝頭に幾枚となく短冊の結びつけられているを目にして、何心なく之を手に取った時、それは印刷せられた都新聞の広告であったのに唖然として言う所を知らず、興趣|忽《たちまち》索然として踵を回して去ったことがあった。
 二三年前初夏の一日、神田五軒町通の一古書肆の店頭を過ぎて、偶然高橋松莚、池田大伍の二君に邂逅した。わたくしは行先の当てもなく漫然散策していた途上であった。二君はこの日午前より劇場に在って演劇の稽古の思いの外早く終ったところから、相携えてこの店に立寄られたのだと云う。店の主人は既にわたくしとは相識の間である。偶然の会合に興を得て店頭の言談には忽花がさいた。主人は喜んで新に買入れた古書錦絵の類を取出して示す。展覧に時刻を移したが、初夏の日は猶高く食時にもまだ大分間がある。さりとてこの人数袂をつらねて散歩に行くべき処もない。上野公園の森は目の前に見えているが無論行く気にはならない。兎に角一同自動車に乗ろうとする間際になって、ふと震災後向島はどんなになっているだろうと言うような事から、始めて車を東に向けさせることにしたが、さて吾妻橋を渡り枕橋を過ると、またしても行先が定まらないので、已むことを得ず百花園という事にきめた。向島へ来れば百花園で休むという事が曾て一般の習慣《ならわし》になっていた。その時代にわたくし達は人と成ったので、今之に対して異議を言うものは一人もない。わたくし達は又既に百花園の荒廃に帰して今更これを訪うべき価値のないことをも熟知していた。さればこの場合に之を云々するのは、恰も七十の老翁を捉えて生命保険の加入契約を勧告し、或はまた玉の井の女に向って悪疾の有無を問うにもひとしく、あまりにばかばかし過る事である。是亦車中百花園行を拒むもののなかった理由であろう。わたくし達は、又日々社会の新事物に接する毎に絶間なく之に対する批判の論を耳にしている。今の世は政治学芸のことに留らず日常坐臥の事まで一として鑑別批判の労をからなくてはならない。之がた
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